不条理の迷宮へ オストルンドとランティモスカンヌ国際映画祭リポート2017(6)

セルゲイ・ロズニツァ監督『ア・ジェントル・クリーチャー』
セルゲイ・ロズニツァ監督『ア・ジェントル・クリーチャー』

世界が混沌として不安に満ちているからだろうか。今年のコンペには、不条理の迷宮へと導かれるような映画が目立つ。

中でも25日に上映されたウクライナのセルゲイ・ロズニツァ監督『ア・ジェントル・クリーチャー』は強烈な作品だった。ロズニツァは2012年のコンペに『霧の中』を出品し、国際批評家連盟賞を獲得した52歳だ。

女のもとに小包が返送されてくる。投獄された夫に送った食料などだ。郵便局で返送の理由を聞いてもわからない。夫の身を案じる女は小包をもってロシアの遠隔の地にある刑務所に向かう。

国境で入国管理官に執拗な検査を受ける。混雑した夜汽車に乗って、たどり着いた刑務所の窓口は長蛇の列。差し入れの品は厳しくチェックされている。ようやく順番がきたが、差し入れは許可されない。理由を聞いても教えてくれない。

食い下がる女を警察は連行する。釈放されると怪しい男が「アレンジしてやる」と言い寄ってくる。いかがわしい酒場でボスと面会するが、客たちの噂話を聞いて逃げ出す。街には女と同じような境遇の人がたくさんいて、だまされて売春婦や薬漬けになっているという。人権団体に相談するが、案件が多くてすぐに対応できないと言われる。

疲れ果てて駅の待合室でうとうとしていると、宿の女がやってきて「すべてアレンジした」という。そして連れて行かれた怪しげな屋敷に集まっていたのは……。

郵便局、入管、警察、客引き、ホテル、マフィア、人権団体、軍隊。女が身分を明かした人々や社会機構は果たして信頼できるのか? 夫の身に何が起こっているのかは誰も教えてくれない。国家機密だからだという。そんな女の弱みにつけこんでくる彼らはいったい何なのか?

忍び寄る全体主義の寓話(ぐうわ)である。ミサイルが飛び交い、テロが頻発する今日の世界に、まん延する息苦しい空気。固有名詞が出てこないこの恐ろしい物語を、遠い国の絵空事と片付けることができようか。ロズニツァの冷徹な世界認識と豊かな映画的想像力に脱帽した。

奇怪な想像力で描く心の闇

『ロブスター』で知られるギリシャの鬼才ヨルゴス・ランティモス監督の『ザ・キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』も奇怪な想像力で、負い目を抱えた男が迷いこむ不条理な世界を描き出した。22日に上映された。

ヨルゴス・ランティモス監督『ザ・キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』

妻(ニコール・キッドマン)と娘、息子と暮らす心臓外科医(コリン・ファレル)は、患者である少年につきまとわれている。

父を事故で亡くしたという少年は母親と2人暮らし。外科医と少年は互いの家を訪ね合ううちに親しくなるが、だんだんおかしなことになってくる。少年の母親が外科医に言い寄ってきたり、少年が娘を誘惑したり。そして息子と娘が相次いで原因不明の病気にかかる。妻の夫への疑念は膨らんでいき、家族は崩壊の危機に陥る。

少年はある理由で外科医に復讐(ふくしゅう)しようとしていた。少年は外科医に、家族を救いたければ子供か妻のうち1人を殺せと命じる……。

平穏な家庭が、不吉な少年のために壊されていくさまがなんとも恐ろしい。少年の呪いが解けないのは、外科医自身が心の闇を抱えているからだ。その贖罪(しょくざい)の意識が、家族崩壊の悪夢として具現化する。

『スクエア』の現代社会批判

20日のコンペで上映されたスウェーデンのリューベン・オストルンド監督『スクエア』も、現代人の深層心理をえぐり出す不条理劇だった。

現代美術館のキュレーター、クリスチャンは『スクエア』と題した展覧会を準備している。人類の仲間としての責任ある役割を思い出させるために、道行く人々に利他主義を促す広場を作るという企画だ。しかし、それはきれいごとではすまないことだった。PR会社のキャンペーンもあって、クリスチャンは窮地に追い込まれる。

リューベン・オストルンド監督『スクエア』

オストルンドは現代社会で隠されがちな人間の根源的な悪意をえぐり出し、凝視する映画作家である。2011年の監督週間に出品され、東京国際映画祭でも上映された『プレイ』では黒人少年たちが白人少年をカツアゲする様子をまるでドキュメンタリーのように淡々と撮った。「政治的な正しさ」とは真逆の物語だが、少年たちの行動の背後に、大人の傍観や無視、典型的な黒人差別主義や教条的な反差別主義の硬直性が見えてくる。そんな二重構造をもつ作品だった。

『スクエア』も同じような構造をもつ。「利他主義」という理想の空間を設定することで、逆に現実の人間のおぞましさ、欲深さ、身勝手さを浮上させる。インテリの主人公は、ホームレスに、子供たちに、愛人に、理不尽な要求を突きつけられて、なされるがままだ。サルのような男が盛大なパーティーをめちゃくちゃにするシーンは強烈だ。延々と続く長回し撮影で、じっと耐えている参加者たちをとらえる。かせをはめられた現代人の隠喩だ。オストルンドの強烈な現代社会批判は、世界を覆う政治危機を思い起こさせた。

『白い肌の異常な夜』を再映画化

米国のソフィア・コッポラ監督『ザ・ビガイルド』は、クリント・イーストウッドが主演したドン・シーゲル監督『白い肌の異常な夜』(1971年)の原作(トーマス・カリナン著)の再映画化である。24日に登場した。

舞台は南北戦争中の南部の森の中にある女子寄宿学校。近くでキノコを採っていた女生徒が、負傷した北軍の兵士(コリン・ファレル)を助ける。学校に運び込まれ、手当てを受けた兵士は順調に回復する。しかし女校長(ニコール・キッドマン)と女教師(キルスティン・ダンスト)、女生徒たちという女だけの世界へ、1人の男が入ってきたことで、欲望や嫉妬などさまざまな感情が渦巻き始める。この森の中の孤立した空間も、ある意味で不条理の迷宮と言えよう。

ソフィア・コッポラ監督『ザ・ビガイルド』

林の中を歩いていた少女が大きな木の根に寝そべる兵士を発見する序盤のショットは、シーゲル版とよく似ている。その後も物語の大筋は変わらない。ただ明らかに違うのはシーゲル版が兵士の不安に重心を置いたスリラーであったのに対し、コッポラ版は女たちの動揺をより大胆かつ繊細に描こうとしている点だ。同じ物語を男の視点から見るか、女の視点から見るか。その違いだ。

校長が兵士の傷口から銃弾を取り出し、縫いあわせた後、ぬれタオルで体を拭いてやる時のセクシュアルな感覚をはじめ、序盤からニコール・キッドマンの兵士に対する性的アピールが尋常でない。最初はおびえていたまじめな教師キルスティン・ダンストが、一転して兵士にひかれていく感情の流れも怒濤(どとう)のようだ。

男の困惑よりも、女の意志や欲望が前面に出たのは、女性監督だからでもあるし、時代の流れでもあろう。サスペンスとしての強度はシーゲル版に軍配が上がるが、いろいろな見方ができそうだ。女と男の話とはそういうものだ。

松田龍平「父の逆なんてものはない」

『散歩する侵略者』の松田龍平は、デビュー作である大島渚監督『御法度』が出品された2000年以来、17年ぶりにカンヌにやってきた。22日にマジェスティックビーチで会った松田は「17年の役者人生を経て、またここに来たという思いがある」と語った。

黒沢清監督とは初めて組んだ。

「気持ちは自分で決めてください、というのが黒沢さんのやり方。そのかわり、動きは監督がびしっと決める。ここはこう撮りたいという明快なビジョンがある」

「大島さんと黒沢さんの共通点は、とことんピュアで真っすぐに作品のことを考えていること。そういう監督がいると、役者としてシンプルになれる」

2度目のカンヌは自身のキャリアを振り返る機会になった。「17年前との違いは、ぼく自身がどういう役者になりたいかってことを考えているということでしょうね」と語り、こう続けた。

『散歩する侵略者』で17年ぶりにカンヌを訪れた松田龍平

「色々なものを食べたい。甘い物も苦い物も、かみしめて。好きな物ばかり食べていたら病気になるから。どんな役でも、やるからには、かみしめて、とことんやりたい」

「父親(松田優作)の存在は最近、大きくなっている。僕の場合、スタートが『俺は父親のようになれない』で、『父親じゃやれないことをしてみよう』から始まった。性格上、あんなに勇ましいおやじにはなれないから」

「でも、それが芝居のアプローチにつながっている部分があって、自分自身と役が切り離せない。それは意識している。自分と役を切り離して、可能性を楽しむことができるのか、できないのか」

「父親の逆なんてものは本当はない。それは一番初めに役者をやっていく自信をつけるための一つのやり方だった。そういうことではないという時期に来てしまったんだと思う」

松田龍平という俳優はいまだに良い意味で不定形で、どんなものにもなりうるという可能性を感じさせる。考えてみれば、松田優作もアクションスターでありながら、既存のアクション俳優の枠にはまることが生涯なかった。

「そうですね」

龍平はうれしそうに笑った。

(編集委員 古賀重樹)

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