「負けるものか」 彩奈さんが魂で造る甲州ワイン
ライター 猪瀬聖
日本固有のブドウ品種「甲州」から造る日本ワインで世界に勝負を挑み、注目を浴びるワイナリーが山梨にある。「グレイスワイン」の名で知られる中央葡萄酒だ。醸造を担当するのは、三澤茂計社長の長女で醸造責任者の彩奈(あやな)さん(36)。世界的なコンクールで受賞を重ねる理由を探ろうと、ワイナリーを訪ねた。
中央葡萄酒の2つのワイナリーのうちの1つ、明野・ミサワワイナリーは、県北西部、甲府盆地を見下ろす標高約700メートルの高台にある。富士山や南アルプス、八ケ岳など壮大なパノラマが広がる一帯は、日照時間が日本で最も長く、高地ゆえ昼夜の寒暖差が大きい。ワイン用ブドウの栽培には理想的な気候だ。醸造作業が一息つく11月下旬、同ワイナリーで、彩奈さんに話を聞いた。
つめの先は割れていた
「彩奈さん」。ワイン関係者の多くは、親しみを込めて彼女をそう呼ぶ。流行りの言葉を借りれば、「美人すぎる醸造家」。今や、テレビや新聞、雑誌に引っ張りだこ。取材のリクエストはいつも、社長ではなく、彩奈さんだ。つい最近も、ある全国ネットのテレビ局から、2カ月に及ぶ文字通りの密着取材を受けたという。
こんなに取材を受けて、本業のワイン造りに支障は出ないのだろうか。そんな疑問が頭をよぎり、インタビューの最中、手を見せてもらった。手はしばしば、真実を雄弁に物語るからだ。
女性らしい華奢(きゃしゃ)な指。だが、よく見ると、短い爪の先が割れている。ブドウに含まれる酸の作用という。皮膚との境目には黒ずみが目立つ。ブドウの色素が付着したものだ。毎日ブドウに触り続けていないと、こんな手にはならない。「ワイン造りは力仕事なので、結構、筋肉も付いていると思います。ブドウがいっぱいに入った箱は、重さが10キロありますから」と笑いながら話してくれた。
中央葡萄酒の4代目、茂計社長の長女として生まれた。だが、最初は家業を継ぐ考えはなかったという。「ワイン造りは格好いいとは思ったが、ブドウの栽培もワインの醸造も、現場には男性しかいない。女性の醸造家に会ったこともない。女性は醸造家になれないものだと勝手に思っていました」
マレーシアで気が変わった
気持ちが変わったのは、大学生の時。輸出を始めたばかりの「グレイス甲州」のPRのため、父親とマレーシアの高級日本食レストランを訪ねた。そこで、グレイス甲州をいたく気に入り、毎晩そのレストランで食事をしているという外国人カップルに出会い、「日本を象徴するワイン」と褒め言葉をもらった。
「子どものころから、祖父や父から甲州の素晴らしさを聞かされてきましたが、身近すぎてピンとこない部分もあった。国内での評価もけっして高くない。そうした中、海外のワイン愛好家から『日本を象徴するワイン』と言われ、甲州のポテンシャルを感じたんです。その瞬間、醸造家になろうと決めました」
大学卒業後、ほどなくして渡仏。醸造学で世界的に有名なボルドー大学に入学し、本格的にワインの勉強を始める。さらに、ボルドーと並ぶ銘醸地ブルゴーニュや、ワイン新興国として注目を浴びる南アフリカで修行。帰国後の2008年、グレイスワインの醸造責任者に就任した。
世界を肌で知り、醸造家としての覚悟や甲州を世界に広めたいとの思いを、一層強めた。毎年、作業のない冬場は、季節が反対の南半球に渡り、様々なワイナリーで修行。そこで得た技術や知識を日本に持ち帰り、ワイン造りに反映させた。そんな渡り鳥の生活を、13年まで6年間続けた。
日本ワイン初の金賞
努力が実を結び、ついに14年、世界的なコンクール「デカンタ・ワールド・ワイン・アワード」で、「キュヴェ三澤 明野 甲州2013」が日本ワイン初の金賞に輝いた。翌15年には、「グレイス甲州プライベート・リザーブ 2014」が同じく金賞を獲得。今年は、スパークリングワインの「グレイス エクストラ ブリュット 2011」と「グレイス甲州プライベート リザーブ 2015」が、金賞よりさらに上のプラチナ賞を同時受賞するという快挙を成し遂げた。ワイナリーでは、受賞ワインを含めた様々なグレイスワインを、テイスティングしたり、直接購入したりすることができる。
グレイスワインに共通するのは、しっかりとした酸味の存在感と、バランスのとれた味わいだ。ワインを飲み慣れなれていない人にとっては、ワインの酸味は好き嫌いの分かれるところだが、料理の味を引き立てるしっかりとした、透き通るような酸味こそが、世界で高い評価を得るための必須条件なのである。
チョコもコーヒーも口にしない
インタビューの間、印象的だったのは、「負けちゃいけない」「あきらめちゃいけない」という言葉が、何度も彩奈さんの口を突いて出てきたことだ。「超」がつくほど仕事にストイックに向き合う姿勢。誰かに似ていると思った。そうだ、あのイチローだ。
彩奈さんは、チョコレートやコーヒーを一切、口にしない。カカオの成分が味覚を乱すと考えるからだ。「疲れた時など、甘い物を食べたいなと思うこともありますが、我慢します」。同じ理由で、香辛料や合成添加物の入った食品も避けている。
自然との戦いもある。高温多湿の日本は、本来、ワイン造りには不向きな土地。ハンディを克服するため、ブドウ栽培でも、海外で学んだ、根元の土を高く盛る高畝(たかうね)方式を導入するなど、試行錯誤を繰り返してきた。
今年は、秋口の長雨で、赤ワイン用品種カベルネ・フランの色付きが悪かった。普通なら、構わずそのまま赤ワインを造るところだが、彩奈さんはロゼワインにすることを決断。「心の中で泣きました。でも、天候の難しい年ほど、醸造家の力が試される。そこは負けちゃいけないと思いました」
「ワイン造りは、辛いことの方が多い。醸造家をやめようかと思ったことも、何度もあります」と彩奈さんは言う。それでもワイン造りを続ける理由は、忘れられない光景があるからだ。
父の背中が小さく見えた
ボルドー留学時代。父親の茂計さんが毎年、会いに来ていた。ある年、現地をたつ父親をホテルの前で見送った時、その背中を見てハッとした。「子供のころから、常に醸造家として尊敬し、人生の偉大な先生だった父の背中が、丸く、小さく見えたんです」。思い通りのワインが造れずに落ち込んだ時は、必ず、あの時の父親の背中が脳裏に浮かぶという。そして、こう自分に言い聞かせる。「父がこれまで、甲州のため、山梨のため、日本のためにと、歯を食いしばってやってきたことを、ここで私が辞めてしまったら、父はきっと無念だろう。父の夢をかなえてあげたい。だから、あきらめちゃいけない」と。
インタビューの最後に、こんな質問をしてみた。彩奈さんにとってワイン造りとは? すると、こんな答えが返ってきた。「家族みたいなものですかね」
彩奈さんと別れた後、カリフォルニアワインの父と言われた故ロバート・モンダヴィの言葉が、ふと頭をよぎった。「よいワイン(good wine)を造るのは技術(skill)、素晴らしいワイン(fine wine)を造るのは芸術(art)」
確かにそうだ。でもグレイスワインに限れば、素晴らしいワインを造るのは、ワイン造りに対する妥協のない厳しさと家族への深い愛情をあわせ持つ、彩奈さんの「心(heart)」ではないだろうか。ワイナリーから、夕闇に浮かぶ南アルプスの稜線を眺めながら、そんな思いを抱いた。
一般公開している勝沼・グレイスワイナリーへは、JR中央本線勝沼ぶどう郷駅下車、タクシーで約10分。ワインショップは午前9時から午後4時半まで営業。有料のワイナリーツアーもある。要予約。詳しくは、電話(0553・44・1230)か、ホームページ(http://www.grace-wine.com/)。
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