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みやもと・まさし 85年(昭60年)東大院修了、キリンビール入社。12年協和発酵キリン(現協和キリン)執行役員、17年取締役。18年から現職。長野県出身。61歳

みやもと・まさし 85年(昭60年)東大院修了、キリンビール入社。12年協和発酵キリン(現協和キリン)執行役員、17年取締役。18年から現職。長野県出身。61歳

■大学院で薬学を学び、1985年にキリンビール(現キリンホールディングス)に入社した。

キリンは80年代前半に医薬品事業に本格参入したばかりでした。新興だからこそ先輩研究者とのしがらみが少なく、自分の思うように自由に研究ができるのではないか。そう期待して入社しました。

入社後すぐに担当したのが認知症など神経疾患の治療薬の開発です。薬のタネとなる化合物を探して実験を繰り返すのですが、これといったものが見つかりません。入社8年目で4~5人の部下をまとめるプロジェクトリーダーになっていましたが、創薬ノウハウの不足を痛感しました。

自己流を続けることに限界があり、上司に研究の打ち切りを訴えました。ひどく落ち込むことはなかったものの、会社にお金を無駄遣いさせたと感じました。

■国内留学など経て研究企画に携わる。

会社の研究環境を整える裏方のような仕事を任されました。外部の研究体制などをリサーチしたり、社内の研究員がどのようなテーマで薬を開発しているかを把握したりして、設備の導入や人員配置などを考える。海外企業から化合物のデータベースを数億円かけて買い付けたり、分析機器を機械メーカーなどと開発して導入したりしました。

研究企画を担当して2年ほどたった98年に、米国に赴任しました。キリンは免疫学の権威だった故・石坂公成氏と共に、米カリフォルニア州にラホイヤアレルギー免疫研究所をつくっていました。産学連携の公益研究所です。研究所内のキリンのオフィスを拠点に、有望な新薬候補を持つ新興企業などを発掘する業務を担うことになりました。

■米国で最先端の研究環境に触れた。

新薬候補を見つけるという目的は、約2年の駐在期間中には果たせませんでした。しかし米国では大きな学びがありました。現地の製薬会社は当時勃興していたインターネットを使って研究情報を入手し、ライバル同士で研究成果の化合物データをやり取りして開発を加速させていました。キリンでも最先端のITシステムを導入する必要があると考え、東京本社にリポートを送りました。

このリポートが医薬事業本部の幹部の目に留まり、「おまえがシステム導入をやれ」と日本に呼び戻されることになります。本社の研究企画担当としてシステム導入のほか、開発や製品戦略の立案などにも関わることになります。研究者としては思うように大成しませんでしたが、新薬ビジネス全体を見渡せる企画の仕事が会社での自分の場所をつくってくれたように思います。

あのころ……

キリンは1980年代から経営多角化の一環として医薬品に事業の幅を広げた。ビールの発酵技術を基盤にして世界で研究が本格化していたバイオ医薬品に注力。当時はベンチャー企業だった米製薬大手アムジェンと84年に提携し、腎疾患などの大型新薬を実用化していく。

[日本経済新聞朝刊 2021年2月2日付]

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