新薬承認で日米の差を実感 会社に40ページの提言書
アステラス製薬 安川健司社長(上)
入社4年目の1990年、山之内の海外進出の切り込み役として米国赴任を命じられました。日本で販売していた前立腺肥大の治療薬「ハルナール」を米国で展開するのが目的です。
(下)日米欧、同時並行の治験を指揮 言葉の壁を乗り越え >>
臨床試験(治験)を成功させて米食品医薬品局(FDA)の承認を得られれば、大きなビジネスになります。しかし当時の山之内は海外で自前の販売網を持っておらず、開発した医薬品は各国の製薬会社に売ってもらっていました。米国には窓口になる駐在員が数人いる程度でした。
やすかわ・けんじ 1986年(昭61年)東大院農修了、山之内製薬(現アステラス製薬)入社。2010年執行役員、17年副社長。18年から現職。東京都出身。60歳
渡米したのは私と開発部門の先輩の2人だけ。手探りで医薬品開発に詳しいコンサルタントなどを雇い、チームを結成しました。
当時の米国で、山之内は決して有名な会社ではありません。しかし日本での治験データを説明したとたんに、「ぜひ試してみたい」と前向きな反応が返ってきます。米国の専門医のオープンマインドに感動したのを覚えています。
一方、治験で求められる内容には驚かされました。FDAの基準は質量ともに、当時の日本とは比べものにならなかったのです。薬の効果について科学的根拠を得られるよう、徹底的な治験が求められます。
日本では1回100人程度で済む治験でも、統計学的に確認できるまで数百、数千人レベルで実施するよう求められます。新薬開発の最前線で日米の差をまざまざと感じました。
最も頭を悩ませたのは山之内社内の折衝でした。
治験規模が違うため、日本と比べものにならない量の治験薬を米国に送ってもらう必要があります。静岡県の研究所にファクスで製造依頼書を送っても必要量が多すぎて「ばかなことを言っているんじゃない」と突き返される始末。粘り強い交渉が求められました。
例えば薬の投与後に血圧が低下した場合、副作用の有無を突き詰めないとFDAに報告できません。当時の日本の治験データは、副作用との因果関係を「不明」としたものも多く、米国基準では曖昧すぎて受け入れられません。
こうした歯がゆさから帰国直前、山之内の問題点を洗い出した提言書を出しました。40ページの論文のようなリポートでしたが、研究開発の重役が集まって対応を本気で議論したようです。中堅社員でも会社を変えられると実感したことは、大きな自信となりました。
あのころ……
国民皆保険制度の導入などで1960年代以降に医薬品市場が急成長すると、欧米の製薬大手に技術力で水をあけられていた日本勢も資金力をつけ、世界に通用する新薬を生み出し始めた。90年代以降は山之内だけでなく武田薬品工業など各社が欧米市場で攻勢をかけていく。