バブル崩壊後に学んだ 現場に足運ぶトップに同行
三越伊勢丹HD 杉江俊彦社長(上)
新宿店の生活部門の改装の取りまとめも
入社して8年たった1991年ごろ、新宿店の生活部門の改装の取りまとめを任されました。時はバブル全盛期。「とにかく高くしろ」と、中心価格帯が500円の茶わんを千円に引き上げるなど強気の値付けをしました。翌年、バブル崩壊が鮮明になり、毎年10%ぐらい売り上げが落ち込んでしまいました。上司に怒られ続ける日々でした。
この頃、昇格試験があり上司に「生活部門にいても失敗する。最初からたたき直す」と言われ、店舗事業企画部に異動になりました。この人事が経営を間近に見るという意味で大きな転機になりました。
店舗ごとに立てた重要案件の企画を本部で支援する役割を担いました。
90年代後半、立川店を移設し大規模店舗を新設する事業に携わりました。「ローコストオペレーションをしないともたない」。当初から私は立川店の運営についてこう強調しました。
すぎえ・としひこ 83年(昭58年)慶大法卒、伊勢丹(現三越伊勢丹ホールディングス)入社。12年取締役。17年から現職。東京都出身。
相模原店では内装などにお金をたっぷり投入しましたが、収益に見合わなかったのです。立川店でもエスカレーター周辺に豪華な装飾などを求められました。
「おまえは立川店の敵だ」。取締役でもある立川店長には悪者扱いされる始末です。店舗投資については百パーセント押し切られてしまいました。
結果として、立川店は当初から厳しい商売を強いられることになります。最初に大きな投資をしてしまったら、もう後戻りできません。譲れない部分はあきらめてはいけないということを学びました。
営業幹部の代わりに事業方針を書くのが仕事です。社長や専務などの経営陣に説明に行くのですが、2回目や3回目には「もういい」と言われてしまう。
本当は相手の反応を見ながら興味があるポイントを探らないといけない。下を向いて資料を読んでいるとそれが分からなかったのですね。
社長だった小柴さんには「無印良品のようなライフスタイル商品をやらないといけない」と言われ、参考になる店舗に同行しました。忙しいのにトップ自ら現場まで足を運ぶ姿勢は今でも参考になっています。
ただ、実際に立ち上げたブランドは当時の無印のようなベーシックな雰囲気ではなく、社長のイメージとは異なるものになり失敗しました。幹部の方針や思いを正確に現場に伝えて具現化することの難しさを痛感しました。
あのころ……
バブル崩壊で1991年に9兆7000億円あった百貨店業界の売上高は10年間で約1割減少した。ショッピングセンター(SC)の台頭で2000年にはそごう(現・そごう・西武)が経営破綻。地方百貨店の閉店も相次いだ。伊勢丹は海外の不採算店舗も整理した。