心痛めた川崎のリストラ役 飛び込み営業で信頼獲得も
コマツ 小川啓之社長(上)
大型ダンプトラックの生産を担当したいと思い、川崎工場の配属を希望しました。設備の生産技術者として設備導入の不具合修正やトラブル対応にあたる毎日。何度も失敗しましたが「俺がやらずに誰がやる」と歯を食いしばりました。
おがわ・ひろゆき 85年(昭60年)京大院修了、コマツ入社。10年執行役員、18年取締役専務執行役員。19年から現職。大阪府出身。
90年以降のバブル経済崩壊で国内需要が厳しくなり、再編を迫られます。94年の「第1次生産体制再編」では川崎工場の閉鎖が決まり、会社人生でも苦しい時期となりました。当時主任で工場側のリストラ責任者を担当することになり、ダンプトラックの生産設備や従業員の移管について話し合うため、週の半分は移管先の真岡工場(栃木県真岡市)に出勤しました。
「なんとかならないか」。自分自身の処遇も分からぬまま、転属する従業員のすがるような訴えに向き合い胸が痛みました。閉鎖直前、自らも真岡工場に移ることになりました。
第2次生産体制再編では、今度は逆に真岡工場で柏崎と川越の工場からの生産移管の受け入れを担当。特に新潟県など田畑を持つ社員に転勤してもらうのは大変です。リストラされる側も経験したからこそ、受け入れには気を配りました。
リストラ完了後の真岡工場は5機種を同じ生産ラインで流す多品種少量生産の工場に転換。全く違う製品を効率良く生産する複雑な設計でも鍛えられました。
需要が底打ちして生産を増やそうとする中、「みどり会」など協力企業の大切さを痛感しました。一番困ったのは、生産量を増やそうとしたクレーン車の大型部品の外製化です。10メートルほどの大型部品を一から製造してくれるところはありません。調達先を開拓しようと北関東で競合メーカーの協力会社を探し、1社に飛び込み営業をしました。
最初はけんもほろろ。怖そうな女性社長から「今忙しいの」と追い返されました。毎日足しげく通ううちに協力を了承してくれました。生産技術部門で体に染みついた技術や知識を丁寧に相手に伝えたことで信頼してもらえたようです。真岡工場も09年には閉鎖してしまいましたが、その会社とは今も取引があります。
自社で内製化している部品はわずかです。優れた建機を量産するには、協力会社との「二人三脚」でサプライチェーンを作り上げることが不可欠です。この時期にみんなで力を合わせてものづくりにまい進する楽しみを学びましたね。
あのころ
バブル崩壊後の「失われた10年」に事業環境が厳しくなり、2001年度に創業以来初めて130億円の営業赤字に。当時の坂根正弘社長は「一度限りの大手術」と1000人以上の希望退職を実施。その後、業績は急回復した。10年代初めに売上高は大きく伸びた。