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時短家事

辻仁成のカジダンへの道 息子と乗り越えた最初の危機 作家・辻仁成

2019/5/28付 日本経済新聞 夕刊

6年前、パリでシングルファザーになると決定した直後、僕は途方に暮れた。けれども、待ったなしの生活の始まりでもあった。離婚が原因で子供の成績が落ち、頻繁に学校に呼び出されるようになった。「このままでは落第です」と担任や校長に脅かされた。

成績の良かった子が最下位になったことに、離婚が影響していないはずはなかった。まず、環境を変えなきゃ、と思い学校の近くへ引っ越しした。僕自身も大変だったが、まずは子供をなんとかしなきゃと思った。ここで落第したら彼は大きく自信を失うだろう。いったいどうしたらいいか、僕は必死で策をめぐらせることになる。

「食べることは生きることだ」とは僕の母親の口癖であった。その言葉を真っ先に思い出し、まず朝ごはんに力を注いだ。フランス生まれの息子だが、さすが日本人と驚くほどの米好き。昼は給食があるので、朝からたくさん食べてもらえるよう朝食は和食とし、弁当箱に詰めて「朝弁」と呼んだ。

息子が飽きぬよう、日々献立にはこだわった。朝はみそ汁の匂いで優しく起こす。「とんとんとん」と包丁の軽快なリズムが家中に鳴り響く。その匂いや音は、家族がいるということを息子に伝えるシグナルとなった。

息子が自信を取り戻せるようにと、ベッドにぬいぐるみを並べた

時間がかかっても日々が答えを出すと信じて家事と向かい合うことになった。子供が登校した後は洗濯をし、掃除機を握りしめ家中を掃除した。ベッドの上に子供のぬいぐるみを並べて、寂しさを紛らわそうとした。母性というものがどういうものかわからなかったが、父性だって負けない力がある、と自分に言い聞かせ続けた。

息子は今どきの子供らしくユーチューブ好きだったので、夕食の時間はあえて一緒にユーチューブを見るようになる。なぜなのかわからないが、今の子供はユーチューブを通してなら言うことを聞く。そこで算数や歴史、英語の先生が解説している動画を探しだし、一緒に見るようになった。

朝食にお弁当を作ったり、家事に向き合った

フランス語の苦手な僕にはちんぷんかんぷんだったが、分かったふりをしながら並んで閲覧した。「好きこそものの上手なれ」とはよくいったものである。半年ほどの時間が必要だったが、この作戦が功を奏して息子の成績は上向きはじめる。

ある日、担任に呼び出され「成績が戻ったので、進級できることになりましたよ」と言われた。シングルファザーになった最初の年、最も大きな試練を僕は越えることができた。それは同時にシングルファザーとしての自信にもつながっていく。子供に久しぶりの笑顔が蘇(よみがえ)った日のことは忘れられない。それは僕が、男手一つでも子供を育てることは可能だ、と自覚した日でもあった。

辻 仁成(つじ・ひとなり)
1959年生まれ。81年、ロックバンド「エコーズ」を結成。97年「海峡の光」で芥川賞。99年「白仏」の仏語版でフェミナ賞外国小説賞。映画監督としても活動する。パリ在住。

[日本経済新聞夕刊2019年5月28日付]

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