米国生まれのツーバイフォー、壁で支えて地震に強く
「ちょっと洋風」な外観で、地震に強いとされるツーバイフォー(2×4)建築。明治初期に紹介されてから140年以上。従来の日本家屋とはどう違うのだろう。歴史を探った。
伝統的な日本家屋との決定的な違いは、柱ではなく壁全体で家の重量を支える点。断面を2×4インチ(約50×100ミリ)に規格化した細長い板(長さ数十センチから数メートル)を基本に、くぎを多用して建物を作る。
「屋根裏の垂木を見てください。幅2インチ(約50ミリ)の板材が合掌型に組み合わされています」。札幌市の北海道大学構内にある穀物倉庫(コーンバーン)で近藤誠司名誉教授が説明してくれた。
コーンバーンは北海道開拓の黎明(れいめい)期、1877年(明治10年)に建設。札幌農学校(現北大)教頭だったクラーク博士らの意思を反映した米国流の建物だ。2階屋根がツーバイフォー(木造枠組壁構法)の原型となる構法で組まれた。
現代の住宅の場合、まず2×4インチや2×6インチの板材を狭めに並べて枠を作り、そこに合板をくぎで打ちつけて「耐力壁」を作る。その壁を6面の箱型に組めば、強固な家が簡単にできる。重さを梁(はり)と柱で支える日本の「軸組構法」と対照的だ。
住宅史に詳しい神奈川大学の内田青蔵教授によると、ツーバイフォーの原型は1830年代の米シカゴで登場、西部開拓で普及した。「設計図を買い、規格材とくぎがあれば、開拓地でも自分自身で家を建てられた」からだ。クラーク博士らによって北海道に伝わったのは、西部開拓期と前後する早い時期だった。
しかし、日本でツーバイフォーは発展せず長らく低迷。同構法で家を建てるには特殊構造として、建設大臣(当時)の認定が必要だったからだ。さらに日本では、柱と梁をほぞで結合する軸組構法の歴史が長く、腕に自信のある大工が"素人っぽい"構法を軽んじたことなども影響した。
一転したのは伝来から約100年後の1974年。建設省(同)が「枠組壁工法技術基準」を告示し、誰もがツーバイフォーで家を建てられるようにしたためだ。
70年代、団塊世代の住宅需要にも後押しされた。日本ツーバイフォー建築協会(東京・港)の清野明技術部会長は「住宅供給が追いつかず、熟練大工でなくても大量建設が可能な構法が必要になった」と分析。工期が短く、当時は建設費も抑えられたようだ。
家の内装は柱の突出が無いので、絵画や写真を飾るなど壁を自由に使いやすい。アメリカ文化を吸収して育った団塊世代には洋風への憧れもあった。内田教授は「リビングでコカ・コーラを飲み、テレビを楽しむイメージに合致した」と話す。
74年からツーバイフォー住宅の大量販売を始めた三井ホーム(東京・新宿)は、初期の製品に「ウィンザー」「マッキンレー」といった名を付けて洋風の印象を高めた。天池英男商品開発部長は「商社マンやパイロットなど海外をよく知る人が主な顧客だった」と話す。74年度に396戸だった建設戸数は5年後の79年度に約1万2千戸、84年度に2万1千戸に急増した。
そして95年1月、普及を促進することになる不幸な出来事が起きた。阪神大震災だ。日本ツーバイフォー建築協会によれば、震災後調べた同構法の住宅9673戸中で全壊はゼロ。95年度の建設戸数は7万9千戸と前年比19%増となる。実は記者(57)も耐震性で同構法の家を建てた。
ただ、ツーバイフォーは、強度維持のため開口部の大きさが制限される。そのためデザインやリフォームの自由度が軸組構法に及ばないという。人手不足でコストや工期も今では軸組構法と変わらなくなった。近年は、3階建て以上への高層化や大規模化に発展の可能性を探る。
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大正の建物 料理店で現役
神奈川県大磯町のJR大磯駅前に1912年(大正元年)に建ったツーバイフォー住宅がある。「旧木下家別邸」と呼ばれ、今は大磯町が所有。民間のイタリア料理店「大磯迎賓館」として営業中だ。
3階建て延べ床面積287平方メートルの建物は、米国帰りの建築家、小笹三郎氏の設計。当時の木造洋館の多くが実は軸組構法だったのと異なり、純粋なツーバイフォー建築だ。レストランの石塚すま子さんは「戦後アパートとして使われていた時期があり、住んでいた方が懐かしそうに訪ねて来ることもある」という。
2階の出窓の部屋は、結婚披露宴の新婦控室にも使われ、華やいだ雰囲気。石塚さんは「歴史的建物なので台風の時など気が気でない」と愛情を込めて話す。
(礒哲司)
[NIKKEIプラス1 2019年4月6日付]
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