泰緬鉄道、償いの果ての虹 戦後処理にかけた男性取材
満田康弘・瀬戸内海放送ディレクター

第2次世界大戦中の1942年。日本軍はタイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道建設に着手した。山岳地帯を含む415キロに及ぶ敷設は過酷を極め、連合国軍の捕虜1万3千人、アジア人労働者数万人が犠牲になった。この償いに一生をささげたのが、当時陸軍の通訳だった永瀬隆さんだ。私は地方局のディレクターとして20年間彼を追ってきた。
私は岡山と香川に本社を置く瀬戸内海放送に勤務している。岡山に住む永瀬さんと初めて会ったのは91年のことだ。地元紙に載った記事がきっかけだった。「元陸軍通訳の男性がタイの子どもたちに贈るぬいぐるみを募っている」。朝の番組を担当していた私は協力しようと、出演依頼のため彼のもとを訪ねた。
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元捕虜との和解に成功
英語塾を経営する傍ら、一人で泰緬鉄道の戦後処理に尽力していることを知ったのはその時だ。94年、ドキュメンタリー番組を作るため初めて旅に同行させてもらった。
まず驚いたのが駆け寄ってくるタイの人々の多さだった。永瀬さんは64年に海外渡航が自由化されてから訪問を続けており、この時が実に82回目。65年から自宅にタイ人留学生を受け入れ、86年には奨学金基金を設立。学生に贈り続けていた。国を超えた絆の深さを感じた。
日本人が重い十字架を背負っていることも実感した。夜通したいまつをたき、強制労働させたことから捕虜たちが「ヘルファイアーパス」と恐れた敷設区間を訪れたとき、数人の西洋人の老人がいた。カメラを向けると怒りに満ちた目をこちらに向けているのが分かる。インタビューしたかったが、どうしても声をかけられなかった。
永瀬さんは76年、タイのクワイ河鉄橋で元捕虜と旧日本軍関係者の和解事業を成功させた。しかし、すべての人々が許してくれた訳ではない。本来、国がすべき謝罪と償いを一人で背負い、批判の矢面に立ち続けてきた彼の心中を思った。
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タイに導いた苦い記憶
永瀬さんは2011年に亡くなるまでに135回タイを訪問している。原動力となったのが2つの大きな体験だ。敗戦直後、連合国が沿線で実施した墓地捜索隊に参加。毎日出てくる捕虜の遺骨を目にし、無残に死んだ人の霊を慰めることを誓ったという。
さらに、もう一つが目の当たりにした忌まわしい拷問の記憶だ。生前永瀬さんは「私は暴力は一度もふるっていないし、建設現場の悲惨さをよく知らなかった」と繰り返し語った。それでも、その記憶は生涯彼を苦しめ、タイへと導き続けた。
妻、佳子さんの存在も大きかった。慰霊の旅の傍らにはいつも佳子さんの姿があった。永瀬さんの個人的な"戦後処理"を手伝うため、2人は結婚した。姉御肌で、面倒見のよい人だった。
「義務のように思うてしよるんじゃけん。日本国の恥じゃ。それを感じとるんじゃけん」。09年9月に亡くなった佳子さんはその3カ月前、最後のタイ訪問の前にそう語った。佳子さんという同志がいなければ、永瀬さんの活動は困難なものになっていただろう。
私は永瀬さんと一緒に7回タイに行き、8本のテレビドキュメンタリーを作った。それらをまとめた映画「クワイ河に虹をかけた男」が完成し、今月下旬には都内で公開される。タイトルは08年の訪問時、クワイ河にかかった虹から取った。
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仏様のプレゼント
永瀬さんが最後と決めて臨んだ旅だった。その頭上に輝いた虹。「こんなのは初めてじゃ」と子どものようにはしゃいでいた。60年以上に及ぶ償いの旅を続けてきた彼に仏様がプレゼントしてくれたように思えた。

永瀬さんの死後、過去の映像を見直して衝撃を受けた。永瀬さんが講演で語っていた。「人生は虚無。目標に向かって虹を架けるのが人生だ」。なぜ、あれほど虹に喜んだのか。ようやく意味が分かったような気がする。あの虹は人生そのものだったのだ。
岡山での先行上映の際、オーストラリアの婦人から「いい映画でした」と声をかけられた。同国には強制労働させられた人がいる。「いつか、あなたの国でも上映したい」と応じた私に彼女は言った。「まず、日本でしょ」。心にずしりと響いた。まだまだ泰緬鉄道の歴史は日本人に知られていない。償いに人生をかけた永瀬さんの姿をできるだけ多くの日本人に知ってもらうことが私の使命だ。
(みつだ・やすひろ=瀬戸内海放送ディレクター)
[日本経済新聞朝刊2016年8月11日付]
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