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歴史博士

話題の牽牛子塚古墳、斉明陵との幾何学的関係は? 古代天皇陵と都の図を追う 異説の日本史(4)

2011/8/31

 前回は古代史研究家、太田明さんが唱えた「天皇陵と宮の図」説のさわりを紹介した。初期の天皇は代ごとに狭い地域内で遷都しているが、その宮跡は「推定地」しか分かっていない。ところが太田さんによれば、天皇陵と宮の位置は定規とコンパスで「弓矢の図」を描くように決められているという。2代綏靖(すいぜい)天皇陵を起点に作図すると、確かに「葛城高丘宮」の推定地「奈良県御所市森脇」と一致した。

■「益田岩船」が中心、根拠は日本書紀

謎の石造物「益田岩船」。下から見ると、巨大さがわかる(上からの写真は前回掲載)。「弓矢の図」の中心的な役割を果たしている(奈良県橿原市)

 ところで、作図のキーポイントになった円の中心に「益田岩船」を充てたのはなぜだろうか。いつ、誰が、何のために造ったのか、全く謎とされる巨大な石造物だ。「何となく……ではありませんよ。根拠は日本書紀にあります」と太田さん。日本書紀によれば、ニギハヤヒノミコトが「天の岩船」という空飛ぶ乗り物で飛び回り、「国の中心地」に着陸した。後に神武天皇がやってきて「畝傍山の東南の橿原の地」を「国の真中」と考えて都を造った……。第1回で紹介した「空見つ(大空から眺めて良い国と選ばれた)日本の国」の語源にもなったエピソードだ。

 確かに益田岩船(奈良県橿原市白橿町)は「畝傍山の東南」の小高い山の上にある。住宅街が途切れるあたりに登り口があり、短いけれどかなり急な山道を登らなくてはならない。途中、手すり代わりのロープが張ってある。しばらく登って、息が弾み始めた頃、目の前に巨大な石が立ちはだかった。奈良支局勤務時代に何度か訪れたが、やはり何度見てもこの異様な光景には圧倒される。

■3代安寧天皇の作図法とは

 さて、前回に続き、3代安寧天皇の作図法も紹介しておこう。安寧天皇の宮「片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)」の推定地は(イ)奈良県橿原市四条町付近、(ロ)奈良県大和高田市三倉堂・片塩町付近、(ハ)大阪府柏原市内――の3説ある。

(1)前回の作図で、2代綏靖陵から忌部山へ引いた線(森脇へ至る)と、益田岩船から3代安寧陵を通る線との交点を点dとする。赤い円は前回の作図の鍵になった円。益田岩船を中心に、岩船―忌部山を半径として描いた。円周は安寧陵も通る。

(2)点dを中心に、d―益田岩船を半径とする円を描く。

(3)点dから南西に向かう線を矢に見立て、益田岩船から矢に垂直な弦を引き、円周との交点をeとする。弦は忌部山の山頂をかすめていく。

(4)点eは(ロ)説の至近。大和高田市の三倉堂や片塩町のやや東で、近鉄浮孔駅や片塩中学校に近い。片塩浮孔宮は点eとみられる。

(5)ただし、益田岩船―e線を北西にずっと延長すると(ハ)説の大阪府柏原市に到達し、矢に当たるd―忌部山線を北東に延長すると(イ)説の橿原市四条町に至る。奇妙な話だが、3説あることが、逆にこの図の形を裏付ける格好になっている。

「弓矢の図」が示したf地点は、公立小学校。ここが4代懿徳天皇の「軽曲峡宮」なのか(奈良県橿原市大軽町)

 4代懿徳(いとく)天皇の図は、さわりだけ記しておこう。

 3代安寧天皇の図をご覧いただきたい。図では点線で示したが、e―d線を南東に延長すると、線上に4代懿徳陵が正確にのってくる。そのまま延長すると、円周との交点fは橿原市大軽町。懿徳天皇の「軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)」には橿原市大軽町、白橿町、見瀬町の3説があるが、大軽町説と一致する。ただし、青い円周には沼山古墳(白橿町の白橿近隣公園内)、見瀬丸山古墳(見瀬町、五条野町、大軽町にまたがる)ものっていて、これも宮の推定地3説がすべて図形に絡んでくる奇妙な現象が起きている。

 猛暑の中、大軽町を訪ねた。近鉄の橿原神宮前駅から10分ほど歩くと、石川池にぽっかりと浮かぶような姿の8代孝元天皇陵が見える。池のほとりから住宅街に続く緩やかな坂をのぼり、図中の点fにたどり着いた。公立の小学校だ。校庭で少年野球をやっていた。ここが「軽曲峡宮」跡だろうか。少し西に軽寺跡、15代応神天皇軽島豊明宮跡の碑などもある。「軽」の地であることは確かだ。

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