鈴木社長が当時を振り返る。「不幸中の幸いですが、従業員に被害はありませんでした。地震発生当時は、会社には役員(取締役)は一人もおらず、管理職では製造部長だけが残っていました。普通なら従業員の安全が確認できれば、仕事を中断して自宅に返そうとします。しかし、製造部長は『役員と全く連絡がつかない段階で、自分がそんな決断を下していいのか』と1時間ほどためらったそうです。沿岸部に住む従業員を社内に引き留めたことで、津波の被害を免れた従業員がいました」。

瓶詰め棟と商品倉庫の仕切り壁は崩落した

社屋や工場の被害は甚大だった。冷蔵倉庫や出荷用の倉庫にあった1万3000本の瓶が倒れて割れた。「日本酒の “池” と割れたガラスで足の踏み場もありませんでした」と鈴木社長は話す。原酒を絞り出す前の醪(もろみ)を入れたタンクからは一部が流れ出した。地下水をくみ上げて貯蔵する本社屋上のタンクが損壊し、各フロアに水が流れ込んで社屋全体が浸水状態になった。

幸い原酒が入った貯蔵タンクはギリギリのところで転倒を免れた。「あと数センチメートルで台座から落ちてしまう状態でした。タンクの容量は5~10キロリットル。1基でも倒れたら10基以上が並ぶタンク全てがドミノ倒しになっていたと思います」(鈴木社長)。

タンクが倒れなかったのは、一ノ蔵が08年から準備を進めていたBCP策定の取り組みに負うところが大きい。

原酒タンクはギリギリのところで転倒を免れた

BCP策定に乗り出したのは、総務部門の提案がきっかけだった。社外の勉強会に参加した社員が、宮城県で地震の被害が多いことに危機感を強めたという。経営陣も必要性を認めて、すぐに準備が始まった。甚大な災害が発生した場合に「企業として何を最も優先すべきか」「それを妨げるリスクは何か」など、社内で議論を重ねた。

念頭に置いたのは1978年6月12日に発生した震度5(当時の計測分類)の「宮城県沖地震」だった。宮城県によると県内で死者27人、重軽傷者1万人余を出し、家屋約7500戸が全半壊したこの地震は、東日本大震災が発生するまで最も被害の大きい災害のひとつだった。

BCPの策定を進めていくなかで、最優先事項としたのが「酒造会社として顧客へ出荷する」ことだった。「何がなんでも商品の出荷を第一として復旧作業を進める」。こうした意識を社内で徹底し始めた。10年には、全社をあげて部署ごとに危険箇所を洗い出して、「被災しても出荷を止めないためにはどうすべきか」と対策を練る作業に入った。

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震災から11日で出荷を再開