「吾輩は猫である。名前はまだ無い」「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」など、小説の「最初の一文」には単独でも印象的なものが多い。一方「最後の一文」はどうか。おそらく、ほとんどの人が覚えてすらいないのではないか。
だが、日本語表現学を専門とする共立女子大学文芸学部教授、半沢幹一氏によれば、最後の一文は作品全体を視野に入れ、すべてが集約されて書かれている。そのため、最後の一文から小説全体を捉えなおすことで、新たな読み方が可能になるのである。本書『最後の一文』は、「最初の一文」とも比較しつつ、まさにそのようにして作品を読み解いた一冊だ。
取り上げられているのは、芥川龍之介や森鴎外らの古典的名作から東野圭吾、小川洋子など最近の作家の作品まで、近現代の日本の短編小説50編。
■『走れメロス』を締めくくる言葉とは
例えば太宰治『走れメロス』である。著者によると、この作品におけるメロスの一連の行動は、一人で王様を殺しに赴く、独断で友人を身代わりにするなど、自分の都合しか考えない身勝手なものばかりだ。最初の一文「メロスは激怒した」も、個人的な感情の爆発にすぎない。
ところが最後の一文は「勇者は、ひどく赤面した」というものなのである。少女に緋(ひ)のマントを差し出された真っ裸のメロスは、少女の自分への思いを知り、顔を赤らめる。それまで自己中心的な行動に終始していたメロスは、「最後の一文」において、はじめて他者の気持ちを知ったのだ。
吉本ばなな『キッチン』の最後の一文は「夢のキッチン。私はいくつもいくつもそれをもつだろう」というフレーズで始まる。ここで著者が着目するのは、「キッチン」という言葉と、「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う」という最初の一文における「台所」の違い。著者によると「台所」が慣れ親しんだ現実の場所を意味するのに対し、「キッチン」は、主人公が生きる上で望ましい非現実の場所を指す。しかも作品のタイトルにもなっている「キッチン」という言葉は、なんと最後の一文で初めて登場するのだ。
著者がここから読み解くのは、慣れ親しんだ場所で周囲の優しさに囲まれて過ごすことから、あらたな場所で一人で生きていくことへの未来に向けた変化。「台所」から「キッチン」への変化には、主人公の心の成長物語が重ねあわされているのだ。
■小説の楽しみ方は一つではない
「最後の一文」から作品を読み解く試みは、決して教科書的な「正解」を導くものではない。むしろ固定化した読み方とは異なる視点で作品を楽しみ、読みを遊ぶためのひとつの方法論なのである。
あなたも時には、お気に入りの小説の「最後の一文」をチェックして、そこから新たな読み方を遊んでみてはどうだろうか。それはひょっとしたら「ひどく赤面する」ような読み方になるかもしれないが、それも含めて多様な読み方を「いくつもいくつももつ」ことの楽しみを、この本は教えてくれている。
情報工場エディター。自治体職員の仕事の傍ら、8万人超のビジネスパーソンをユーザーに持つ書籍ダイジェストサービス「SERENDIP」エディティング・チームのメンバーも兼ねる。東京都出身。