本気の教えに鍛えられた 今はなきアナウンス学校の熱

梶原しげるさんはアナウンス学校で熱心な指導を受けた。写真はイメージ =PIXTA
梶原しげるさんはアナウンス学校で熱心な指導を受けた。写真はイメージ =PIXTA

大学生活を「あれこそが自分の青春時代だった」と、うっとりした表情で振り返る人がいる。実にうらやましいことだ。私のキャンパスライフの大半は「思い出したくもない日々」だった。

楽しかった高校時代との落差があまりに激しかったからかもしれない。地元の中学卒業後に進んだその高校は横浜・磯子の丘に「ポツンと一軒」という感じでたたずむ新設校だった。運動場はないのに、テニスコートが4面あった。体育の授業はテニスか、近隣をひたすら走るジョギング。校舎は仮設のプレハブで、強風で飛ばされたことがニュースにもなった。

普通科ではなく、「貿易外語科」という職業高校だった。授業のバリエーションは幅広く、「タイプライター実習」「エアリアスタディー(世界の諸問題を英語で学ぶ)」「少人数の英会話(近隣に住む米軍兵士の妻によるボランティア)」「日本を訪れるバックパッカーの来訪」「様々な分野の専門家によるレクチャー」などもあった。教師陣にはビジネス経験の豊富な人たちがいて、教わる側にとってはエキサイティングな毎日だった。

大学受験で軒並み失敗、学生運動は傍観

卒業してそのまま社会に出るつもりだったが、「学びを深め、世界に貢献したい」などと妄想してしまった。「外国語を学べる大学」を中心に受験したが、力が及ばず、国立も私立も軒並み不合格に終わった。

しかし、「記念受験」のつもりで受けた早稲田大学だけがなぜか合格となり、私も親も驚いた。「歴史と伝統のある早稲田で学べる」ということを素直に喜んで、進学を決めた。ところが入学早々、自分がいかに世間知らずかを思い知らされた。

学生運動が激化したのを受け、東京大学が入試を中止した。今からちょうど50年前にあたる1969年のことだ。安田講堂での攻防は、テレビでぼんやり見ていたが、入学が決まった早稲田でも学内施設が相次いで閉鎖され、学生運動が激しさを増していた。