日高屋1号店、新宿アルタ裏に 「屋台の再現」果たす
ハイデイ日高会長 神田正氏(7)

創業から26年で店頭公開にこぎ着けた(右から2人目が神田氏)
ラーメン店「日高屋」の創業者、神田正・ハイデイ日高会長の「仕事人秘録」。初めて「日高屋」を構えた当時の戦略を明かします。
<<(6)日高屋は「来来軒」だった 夜客つかんで埼玉で成長
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成長の原動力だった「来来軒」に見切りをつけ、業態転換する。
「来来軒」が20店舗くらいまで増えてきた頃、苦情が来るようになりました。「店によって味が違うじゃないか」と。「来来軒」はラーメンやギョーザがメーンとはいえ、中華料理です。メニューが多く、標準化しきれません。鍋を振る調理人の腕に頼らざるを得ず、同じ店でも品質が一定しませんでした。
新規株式公開(IPO)を目指して多店舗化を急ぎたい時期でした。いっそ「来来軒」よりマニュアルで管理しやすいラーメン専門店はどうか、と考えました。それで「ラーメン館」ができました。
この業態は出店数を稼げました。1994年4月に大宮(現さいたま市大宮区)に1号店を開き、東京にも進出して、最盛期は60店くらいまでになりました。いまの「日高屋」ほどではないにせよアルコール類もそこそこ売れて、利益率も悪くありませんでした。それで99年9月に無事、株式の店頭公開を果たしました。
募集価格は1300円で初値は1720円でした。時価総額は61億円ちょっと。いまの10分の1ですね。それでも、信じてついてきてくれた弟たちや社員にも恩返しができた気持ちになりました。
ところが、公開後すぐ、減益に陥る。「ラーメン館」の客足が鈍った。
標準化できた、といえば聞こえはいいのですが、客に飽きられました。普通ではおもしろくないから、九州とんこつ、だの、北海道みそ、だの、いろんなメニューをそろえました。ところがスープのベースは同じ鍋です。所詮は同じ味をアレンジしているだけですから客に見透かされます。
この失敗で目が覚めました。腹を据えて、新しい業態を探ることにしました。それまでの歩みで、駅前立地の強みは痛感していました。利益率を確保するためにはアルコール類の売上比率を高める必要に気づいていました。店のオペレーションをある程度標準化できて、アルコール類が売れる店。「来来軒」と「ラーメン館」の中間をゆく店。そう考えて、「日高屋」のコンセプトが固まりました。