難産だったエアージャパン、経営企画でリストラも
ANAホールディングス社長 片野坂真哉氏(下)
2017年2月、ピーチ・アビエーションの子会社化を発表したANAホールディングスの片野坂社長(右)
ANAホールディングスの片野坂真哉社長は1995年、課長級の主席部員として、経営企画に携わる。
97年のアジア通貨危機は旅客需要を大幅に減らし、当社は6年連続の無配に陥りました。航空機を購入し売却してまた借りる「セール・アンド・リースバック」を多用して単年度のキャッシュフローを良くしていました。しかし、これだと後年のリース負担が重くなります。企画室でこうした決算対策をやめることを首脳陣に進言しました。
86年の就航以来、赤字続きだった国際線も問題でした。他方、90年代は航空自由化の波が押し寄せ、スカイマークなどが創業し、安定基盤だった国内線も競争が激化。国際線事業の収益改善は待ったなしの課題となりました。
改革は痛みを伴った。
片野坂社長(右)は情報収集で米国に何度も足を運んだ(1994年、ワシントン)
関西空港発の欧州線など不採算路線を休止。採用の抑制や、パイロットの賃金カットなど強権策も打ち出しました。それでも早期退職による人員削減は避けられず、会社を恨み辞めていった人もいました。
さらに低コストの運航会社「エアージャパン」を90年に設立しました。外国人パイロットを雇ったり、サービスを簡易にしたりしました。労組の理解を取り付けながらの難産でした。当時はまだ格安航空会社(LCC)の概念がなく、社内外からANAの劣化版だという批判も受けました。それでも着実に路線を拡大し、今やグループの重要な位置を占めています。
コスト削減した分は攻めの投資に回した。
1つが航空券の価格ごとの数量を調整して収益を最大にする「イールドマネジメント」の高度化です。当時はシステム開発投資の優先順位はかなり下でしたが、重要性を主張して格上げしてもらいました。