心や意識の謎、脳科学はここまで近づいた第4回 国際電気通信基礎技術研究所 脳情報通信総合研究所の川人光男所長に聞く

日経ビジネススクール(日本経済新聞社、日経BP社)では、新事業や経営を担う次世代リーダー向けに、テクノロジーが引き起こす社会や産業の大変革を予測し、それを乗り切る羅針盤となる戦略を伝授する「テクノロジーインパクト2030」を10月11日に開講します。本連載では「テクノロジーインパクト2030」の講師に、各研究分野でのテクノロジーの進歩が近い将来に何を起こそうとしているのか、ビジネスにどのようなインパクトを与えると考えているのかを聞きます。第4回は国際電気通信基礎技術研究所 脳情報通信総合研究所 所長・ATRフェロー 脳情報研究所の川人光男氏です。

人の心や意識は、最も身近な究極の謎だ。誰もがその存在を感じることができるのに、その正体は全く分からない。

体の不調を感じたとき、私たちはX線写真の撮影や血液検査などを行って、不調の原因を詳しく調べる。心や意識は、脳という人の器官の働きで生まれたものだ。しかし、心に病を抱えたり、ひどく落ち込んだりしたとき、病院でどんなに脳を検査してもその原因を知ることはできない。脳がどのように働くことで、心や意識が生まれているのか、その仕組みがよく分かっていないからだ。

脳はブラックボックスである。教育や訓練で、その能力が高まることは誰でも知っている。ところが、どのような作業や経験の中で、どのくらい学習すれば能力が高まるのか、脳の学習原理に基づく効果的な学習法は分かっていない。ただ、イチローは子供のころ毎日のようにバッティングセンターに通い詰めていた、藤井四段は寸暇を惜しんで詰め将棋の問題を解きまくっていた、といった学習の行為と結果から、学習方法の妥当性を推測することしかできない。

パソコンやスマートフォンなどの電子機器は、内部に搭載する一つひとつの部品の機能とそれらを結びつけて作る回路の構造が詳細に分かっている。だから、故障を直す方法も、機能や性能を高める指針も極めて明確に決めることができる。もしも、これまでブラックボックスだった脳の回路構造や活動の様子が詳細に分かったら、いったい何ができるようになるのだろうか。これまで望むべくもなかった効果的な方法で、心の病を癒やし、学習することができるのではないか。実は、そんな未来が、すぐそこまで来ている。

脳の働きをつぶさに調べる方法とその活用法を研究する国際電気通信基礎技術研究所(ATR) 脳情報通信総合研究所 所長・ATRフェロー 脳情報研究所の川人光男氏に、脳の働きはどのくらい分かってきたのか、また最新の脳科学の研究成果によって医療や教育などにどのようなインパクトを及ぼす可能性があるのか聞いた。

もはや脳はブラックボックスではない

――脳科学の進歩によって、人間の脳の働きは、どのくらい解明されてきたのでしょうか。

一言で脳科学と言っても守備範囲は広範です。ただし総じて言えば、この半世紀の間、急激に進歩した分野であることは確かです。これまで脳科学は、大きく2つのアプローチで研究が進められてきました。

1つは、動物を対象にして、ニューロン(神経細胞)の詳細な活動を調べる研究です。動物のゲノムに、光に反応するタンパク質を生み出す遺伝子を組み込み、脳の中の特定部分の脳細胞だけに光を当てて興奮させて、脳内の他の部分への活動の広がりを調べることができるようになりました。オプトジェネティックス(光遺伝学)と呼ぶ手法です。さらに10年ほど前、二光子顕微鏡と呼ぶ特殊な顕微鏡を使えば、生きている動物の数多くの神経細胞の活動データを同時に得ることができるようになりました。これによって、脳細胞と脳全体の活動の因果関係が詳細に分かります。今では、光を脳細胞に当てて、ニセの記憶を刻み込むといったことさえできます。

もう1つは、人を対象にして、非侵襲で脳の活動を調べる研究です。小川誠二先生(現 東北福祉大学 特任教授)が発見した機能的磁気共鳴映像(fRMI)の原理に基づいて、脳の活動を映像化する装置が約20年前に実用化されました。そのおかげで、脳内の各部分の活動を行動や心の動きと対応させて理解できるようになり、人の脳の働きに関する研究が一気に加速しました。

――動物を対象にして脳細胞の詳細な動きが、そして人間を対象にして脳内の各部分の働きが分かってきたということですね。それぞれのアプローチの知見を組み合わせると、人間の脳の働きがより克明に見えてくるような気がします。

その通りです。2つのアプローチの研究結果をいかにして滑らかにつなぐかが、今ホットな研究領域になっています。双方の研究結果は、最近人工知能としてさまざまな分野で活用されるようになった、ディープラーニング(深層学習)を主体にした理論で結びつける試みが進められています。そして、この研究領域が3つ目の柱として立ち上がりつつあります。

例えば、ATR神経情報学研究室室長の神谷之康氏は、ディープラーニングのニューラルネットワークのモデルにfMRIで計測した脳の活動データを組み込むことで、人を傷つけることなく、その人が5000種類のモノのうちのどれを見ているのか推定できることを示しました。また、同じモノを動物と人工知能の両方に見せて、実際の神経細胞とニューラルネットワーク内の挙動の対応を調べるといった研究も進んでいます。

近年、にわかに注目が集まったディープラーニングですが、実は脳科学の分野では馴染み深い技術です。ノーベル医学・生理学賞を受賞したデイヴィッド・ヒューベル氏とトルステン・ウィーゼル氏の視覚情報の処理に関する発見を源流として、既に50年以上にわたって研究されてきました。

ただし、より複雑で詳細な脳科学の研究にディープラーニングを応用する環境ができたのは、最近のことです。計算機が高性能化し、より複雑な脳の活動をモデル化して再現できるようになりました。また、ディープラーニングの学習には、数千万、数億といった莫大な数のデータが必要ですが、学習に用いる画像データをネット上で研究者が手軽に入手できるようにもなってきました。

脳を直接、「しつける」

――脳の活動データを測定することで、その人が何を見ているのか分かるというのはすごいことですね。

そうした脳の中の情報を読み出す技術のことを「デコーディング」と呼んでいます。デコーディング技術の進歩は目覚ましく、睡眠中にどのような夢を見ているのかさえ分かります。

また、ATRでは、脳の中の情報を読み取りながら、外部環境から何らかの刺激を与えて、感じていることや記憶していることを好ましい方向に導く研究にも取り組んでいます。「デコーディッド ニューロフィードバック(DecNef)」と呼ぶ技術です。子どもを褒めたり叱ったりしながら、しつけるのと同様のことを、脳に対して直接行うものです。fMRIを使って脳内の状態をリアルタイムで測り、好ましい状態になったときに、すかさず被験者が喜ぶ報酬を出します。こうした学習を繰り返すことで、本人が気づかないうちに好ましい脳内の状態が定着します。

DecNefを活用すると、人の感覚や行動、感情を、無意識のうちにはっきりと変えることができます。実際には白黒のモノに色が着いているように見えたり、人の顔の好みを変えたり、判断を下すときに自信がわくようにしたり、恐怖記憶を消したり、さまざまなことが実証されています。

外部からの刺激には、電気や磁気の印加といった過激な手段は一切使っていません。チョコレートや金銭を与えるといった、簡単な報酬を与えるだけで脳内の状態が変化していきます。動物の心理学でいう、「オペラント条件付け(道具的条件付け)」と呼ぶ方法です。効果的な報酬の種類や与えるタイミングは、研究のトピックスの1つになっています。

人の心の状態は検査できなかった

――DecNefは、どのようなことに活用できるのでしょうか。

応用分野は極めて広いと思います。そもそも、脳が関係しない職業はありません。中でも、これまで科学的なデータに基づく治療ができなかった精神疾患の医療への応用に期待しています。ATRにはクリニックが併設されており、そこでは自閉症や薬による改善がみられないうつ病などの患者さんに治療を試み、DecNefによって症状が改善する結果が得られています。

症状と脳内の活動の因果関係を明確にしながら適切な治療ができることは、精神疾患の医療に革命を起こします。自閉症の方は、世の中にはたくさんいるわけですが、生物学的、客観的に診断することができなかったのです。問診などを基に担当医師が診断を下すしか術がないため、診断結果には主観が入ってしまう可能性があります。脳内回路のデータを基に診断できるようになれば、当事者の状態を正確かつ詳細に把握できます。また治療の進め方も大きく変わるでしょう。これまでは治療の効果を精査しながら手探りで進めていたのですが、脳内回路の状態を確認しながら的確な方法で健常な状態へと変えていくことができます。

――なるほど、精神疾患は脳の活動の検査を基にした客観的な治療ができなかったわけですか。DecNefの応用によって、検査して病気の状態を知り適切な治療をするという、当たり前の医療の方法論を精神疾患に初めて適用できるようになるということですね。

はい。うまく行けば、病気自体を定義し直すこともできるでしょう。今、うつ病には大きく3種類あると言われています。強いうつ症状が長期間続き、日常的に憂鬱な状態が続く「大うつ病」、うつ状態と躁状態を繰り返す「双極性障害」、軽いうつ状態が長く続く「気分変調症」です。こうした症状の違いが、どのようなメカニズムで生じるのか、分かってくると思います。

これまで違う病名で呼ばれていた統合失調症と自閉症が実は、つながりが強く、特定の脳の回路に原因があることが分かっています。これまでの病気の分類は、従来の診察方法で決められてきたものであり、生物学的な検査に基づいて分類されているわけではありません。脳の活動の様子で精神疾患を明確に再定義できれば、病気や患者の状態に合わせて的確な治療を施す、精密医療や個別化医療が可能になります。

体と同様に心の健康状態も継続管理すべきでは

――体の健康状態は、不調を感じた時だけではなく、定期検診などで継続的に把握できます。心の健康状態については、定期検診はおろか、不調を感じても検査できない、改めて考えれば怖い状態だったわけですね。

倫理的な問題も生じる可能性があるため慎重に考える必要があるのですが、うつ病、自閉症、統合失調症、双極性障害という4つの疾患に関して、脳内の回路から易罹病性(特定の疾患への掛かり易さ)を調べることができます。原理的には、入社試験や昇任試験、職種の適性判断などに利用することもできます。自信を失っている、悩みを抱えているといった心の健康状態を検査することにも利用可能ですから、定期検診への応用には意味があると思います。私は、これから10年くらいの間には、民間で、こうした心の検診ビジネスが始まるのではと考えています。

――これまでブラックボックスだった脳の活動が、あからさまに分かるようになると、抵抗感を感じる人も多いかもしれません。

かつて、会話や読み書き、計算などに関わる「作業記憶」に対応する脳内の回路を見ることができるという内容の論文を書いて、報道発表したことがあります。取材に来た受験生の子どもを持つ記者が、「こんな夢も希望もない話はない。人の記憶が機械で分かり、それが一生変わらないとすれば救いがないではないか」と言われました。でも、これは誤解です。学習で鍛えたその瞬間の脳内回路が分かるのであって、さらに学習すればその回路は当然変わります。検査結果で受験の合否を決めるのはどうかと思いますが、学習の達成度は分かります。

脳科学と教育の融合に好機が到来

――すると、学習効果を測定しながら、その人にとって効果的な学習法を探るためにも利用できそうですね。

脳科学の教育への応用というのは、かつてから検討されてきたテーマではあります。脳科学の世界的権威である伊藤正男先生が、長年続けてきた「脳を知る、脳を守る、脳を創る」という研究コンセプトに、20年ほど前から「脳を育む」という脳科学と教育の融合領域を加えました。そして、脳科学者と教育学者の間で議論したのです。ところが、議論は全く噛み合わなかったといいます。教育学者から見れば、脳科学で扱う"血の通わない"測定データでは、人格を育む生きた教育は語れないということのようでした。一方の脳科学者は、教育学は個々の学者の見解が体系化されていないと感じたのです。

しかし、現在はその時点に比べると、脳科学で得られる知見が格段に詳細になりました。学習による脳内回路の変化が、学習結果とより明確かつ詳細に対応付けられるようになっています。教育学の方も、科学的に進化しているのではと考えています。いよいよ、教育への応用を考えることができる時期にきているのかもしれません。

――勉強や技能やスキルを磨く訓練をしていると、今やっている勉強や訓練の方法が本当に正しいのか不安になることはよくあります。科学的な指針が得られるようになると、迷いなく研鑽できるようになるかもしれません。

人の勉強や訓練に活用するだけではなく、熟練技能者の技能をロボットにコピーしたいというニーズへの応用も考えられます。少子高齢化が進む日本では、名人級の技能者が後継者もなく続々と引退して、存続が危うくなる企業や業種が出てくることでしょう。ATRでは、逆強化学習と呼ぶ方法を使って、名人の行動パターンを参考にしてディープラーニングを用いて、熟練技能者の技能を写し取る研究をしています。しかし、なかなかうまくいきません。ここは確実に社会の要請がある部分であり、何らかのブレークスルーが求められています。

川人光男
1976年東京大学理学部物理学科卒業。1981年大阪大学大学院博士課程修了。工学博士。2003年ATR脳情報研究所所長、04年ATRフェロー。10年ATR脳情報通信総合研究所所長。13年よりAMED脳プロBMI技術精神・神経疾患等の治療グループリーダー、14年内閣府ImPACTプログラム“脳情報の可視化と制御”携帯型BMI領域統括技術責任者、16年理研AIPセンター特任顧問を兼任。
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