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私の課長時代

「烏合の衆」ではダメ ジャンボ機事故、先輩にも指示 日本航空会長 大西賢氏(上)

2017/6/18

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■日本航空の大西賢会長(61)は1978年に入社後、成田空港の整備工場に配属された。

 石油危機で採用が絞られ、同期の技術系人材は5人だけでした。最初の仕事は整備に入ってきた機体のクリーニングです。胴体の内張をはがして骨格のサビ止めをこすり落とし、腐食部を削り落としたらまたサビ止めを塗って内張を戻す。下積み時代は会社のことはおろか、飛行機のことも全貌がつかめていませんでした。入社5年目に国家ライセンスである「一等航空整備士」を取り、初めて飛行機が飛ぶ仕組みを理解しました。

 85年に起こしてしまったジャンボ機の墜落事故では、同型機の検査にめどをつけてから現地対応に加わりました。遺体安置所でドライアイスを補充しご遺族を案内する役割でしたが、様々な部署から人をかき集めていたため現場は混乱していました。ご家族を亡くされた方の心中を考えれば、私たちが「烏合(うごう)の衆」であってはなりません。そう思って先輩後輩関係なく指示を飛ばし合いました。

■88年に工務課長補佐に就く。

おおにし・まさる 1978年(昭53年)東大工卒、日本航空入社。整備部門を長く歩み、破綻に揺れた2010年日航社長に就任。12年から会長。大阪府出身

 整備業務の外部委託を進めました。機体のクリーニングや解体を自衛隊退官者などに委託するプランを立案しましたが、業界に前例がありません。内外の人員が入り交じる現場で業務指示が委託先の人に及ばないようマニュアルをつくったり、窓口となる部署を設置したりと、全くなじみのない労働法の書籍を片手に試行錯誤する毎日でした。

 外部委託には狙いがありました。本体整備士の一層の技術力向上です。ブレーキの不具合などトラブル発生時に原因を速やかに特定するスキルを身につけるには、先輩の仕事を後ろから見て盗むのが一番です。一方で、当時も今も共通することですが、機体性能は年々向上しトラブルは起きにくくなっています。数少ない機会を失わないよう、若い整備士の時間を確保する必要があったのです。

■組織の横連携も強く意識した。

 予約状況に応じて座席仕様を変える「クイック・コンフィギュレーション・チェンジ(QCC)」の確立もミッションでした。販売部門のリクエストを受け、ビジネスクラスとエコノミーの比率を一晩で変える荒技です。酸素マスクの位置調節や部署間連携といった地道なノウハウの積み重ねで実現しました。2000年代にQCCは廃止されましたが、各部が一丸となって挑戦した良い思い出です。

 当時は成田の社宅に妻と長男、長女と暮らしていました。毎年夏には息子と同僚の子ども何人かを連れて、妻の実家のある静岡県伊東市まで210キロメートルをサイクリングしたものです。自宅でよその子が夕食をとるなど同年代の社員同士が家族のように助け合って生活していました。

<あのころ>
 1980年代前半、日本航空は拡大路線を進んだ。大型旅客機を相次ぎ導入し国際線の拡充に努めた結果、83年には国際航空運送協会の統計で旅客と貨物の輸送実績で世界一になった。一方で85年に墜落事故を起こした。単独の航空事故としては史上最悪の乗客乗員520人が犠牲になった。

[日本経済新聞朝刊2016年10月18日付]

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