日経ナショナル ジオグラフィック社

ネフェルティティの時代にこれが大きく変わり、硬くぎこちない直線は、自然で流れるような曲線になった。アクエンアテンとネフェルティティの絵にもしなやかな曲線が使われ、甘い唇、長い顔と鼻、細長い体、突き出たおなか、広い腰が描かれた。男性と女性は同じように描かれ、どちらも男性的な特徴と女性的な特徴の両方を備えていた。アテン神がエジプト人にとって父であると同時に母でもあることを強調させるためだったのだろうと、学者たちは考えている。ファラオも同様に、父親と母親の両方の役割を担い、それによって揺るぎない結束を生み、エジプトに祝福をもたらす存在だった。

アマルナで発見されたアクエンアテン像。紀元前1353~1336年ごろのもの(BPK/SCALA, FLORENCE)

芸術様式の変化が速いペースで起こったのは、改革への強い思いがあったからだと考えられている。エジプト芸術は、表現そのものがメッセージを伝える。アクエンアテンとネフェルティティもまた、一神教への改宗に伴って、新たなイデオロギーを説くために芸術を利用した。新しいスタートを切るためには、古い美の基準を一切排除する必要があり、芸術が激しい変化を強調する道具となった。

王の死後

ネフェルティティの王室は円満に見えたが、先代であるアメンホテプ3世の安定していた時代とは違って、この頃のエジプトの文化、宗教、政治、経済は混沌としていた。遠く離れた場所に新しい都市を建設するという無謀な計画は莫大な費用を必要とし、エジプト全土を混乱に陥れた。

新しい宗教も、多神教に基づいた文化全体を揺るがそうとしていた。エジプトには、古来より築かれた大規模な神官のネットワークや神殿があり、崇拝者たちがいたためだ。税や国庫への負担は重く、子どもも含む多くのエジプト人が、都市建設の労働力として駆り出された。

同じ頃、外国からの脅威が増し、国民は保護を必要としていた。エジプトは史上最も繁栄していたとはいえ、都市建設と宗教改革、それらを支援する体制整備のために莫大な資金が使われ、国の財政は傾いた。

アクエンアテンは、ネフェルティティとともに17年間エジプトを治めた後、約40歳でこの世を去った。その後エジプトは旧体制に戻り、アクエンアテンの名はエジプト史から抹消された。その記念碑や彫像は解体され、破壊された。アテン崇拝は廃止され、多神教信仰が復活した。税金は古い伝統を守るために使われ、首都はテーベへ戻された。アケトアテンは廃虚と化し、以後3000年以上もの間歴史から姿を消した。

夫の死後、ネフェルティティがどうなったのかは、エジプト学者の間でも意見が分かれている。エジプト史のなかでも特に変化が激しかったこの時代に、彼女がどのような役割を果たしたかはわかっていない。そのまま消えていったのかもしれないが、より重要な役割を担っていた可能性もある。

アケトアテンの東に作られたアクエンアテンの墓には、ネフェルティティとアテン神の姿が描かれている。ネフェルティティの墓は、まだ発見されていない(KENNETH GARRETT)

一説には、夫亡き後、「アンクケペルウラー・スメンクカーラー」という名で王位に就き、次の継承者であるツタンカーメンへつないだとも言われている。これに関してクーニー氏は、次のように書いている。「ネフェルティティの政治的指導力が評価されることはない。根底からひっくり返された国を再び立て直す計画を始めたのは彼女だというのに」

(文 EDITORS OF NATIONAL GEOGRAPHIC、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2022年3月24日付]