串刺し公の最期とドラキュラ

だがそれ以上に、オスマン帝国に対する仕打ちは残酷極まりないものだった。1459年にオスマン皇帝のメフメト2世から送られた使節団が、宗教上の理由でターバンを外すことを拒むと、ヴラド3世はその信仰心への敬意のしるしとして、使節団の頭に釘でターバンを打ち付けたという。

1462年の春、メフメト2世は9万人の軍を召集してワラキアへ進軍した。夜襲とゲリラ戦を繰り返した末、ヴラド3世はお得意の戦術を採用し、2万3000人以上の捕虜とその家族を串刺しにして、敵の進路に遺体をさらした。フランスの歴史家マテイ・カザクはその様子を次のように書き残している。「幼児までもが母親と一緒に杭(くい)に刺され、遺体のはらわたには鳥たちが巣を作っていた」。遺体を刺した杭が立ち並ぶ「森」を目にしたメフメト2世は、あまりの光景に衝撃を受け、そのまま回れ右をしてコンスタンティノープルへ引き返したという。

だが、ワラキアの元貴族たちがヴラド3世の弟であるラドゥに味方したことから、オスマン帝国に運が回ってくる。ラドゥは、オスマン帝国側につけば元の特権を取り戻すことができると、貴族たちに約束した。また、ヴラド3世の凶行に嫌気が差していた国民の支持も取り付けた。

次第に権力と富、軍隊の勢いを失っていったヴラド3世は、ついに1462年、ハンガリー王のマーチャーシュ1世に捕らえられ、12年間ハンガリーで幽閉される。その間ワラキアでは、支配者が何度か入れ替わった。1475年ごろ、マーチャーシュ1世はワラキアをハンガリー側へ取り戻すため、ヴラド3世を送り込んだ。1476年11月、ヴラド3世は一度は勝利を手にするものの、その1カ月後に惨敗を喫する。オスマン軍の支援を受けたライバルが、ヴラド3世を待ち伏せして殺害し、その首をはねたのだ。首はコンスタンティノープルで待ち受けるメフメト2世のもとへ送られ、町の門の上に掲げられたという。

これほどの悪行を重ねたにもかかわらず、1820年に出版された1冊の本がなければ、ヴラド3世が注目を集めることはなかっただろう。ワラキア公国へ赴任した英国領事ウィリアム・ウィルキンソンが執筆した『An Account of the Principalities of Wallachia and Moldavia: With Various Political Observations Relating to Them(ワラキア公国とモルダビア公国の記録:およびそれらに関連する様々な政治的観察)』は、地域の歴史を深く掘り下げ、悪名高い「串刺し公」についても触れていた。

ブラム・ストーカーはヴラドの故郷を一度も訪れたことはないが、1890年にウィルキンソンの本に出合ったことは知られている。その後、ストーカーは次のように書き残した。「ドラキュラとは、ワラキア語で『悪魔』を意味する。ワラキア人は、勇敢さ、残虐な行為E、または狡猾(こうかつ)さで知られる人物には誰でも、この名を姓として与える習慣があった」。串刺し公ヴラドははるか昔にこの世を去ったが、そこから誕生した吸血鬼ドラキュラの物語は、その後長きにわたって語り継がれることになる。

ブロードウェイで初めてドラキュラ伯爵を演じたハンガリー出身の俳優ベラ・ルゴシ。その後1931年のユニバーサル映画でも、吸血鬼の役を演じた(ALLSTAR PICTURE LIBRARY LTD./ACI/ALAMY)

(文=JUAN JOSE SÁNCHEZ ARRESEIGOR、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック社)

[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2021年11月6日付]