1448年、16歳だったヴラド3世はオスマン帝国の助けを借りて、ヴラディスラフ2世を追放し、権力の座に就いた。ところが、そのわずか2カ月後にハンガリーがヴラディスラフを再びワラキア公に据えたため、ヴラド3世は国を追われ、それから8年間オスマン帝国とモルダビアを転々としていた。
この間に、ヴラド3世はオスマン帝国からハンガリーにくら替えしたようで、ハンガリーから軍事支援を受けるようになった。ヴラディスラフの方は逆にオスマン側に寝返り、こうして再びワラキア公の座をめぐる争いに火がつけられた。1456年7月22日、ヴラディスラフと直接対決したヴラド3世は、ヴラディスラフの首をはねて、公位を奪還した。

恐怖支配
その頃、オスマン帝国とハンガリー王国の度重なる戦いと貴族同士の内紛により、ワラキアの国土は荒れ果てていた。ヴラド3世はすぐに犯罪の厳しい取り締まりに乗り出し、虚言などの軽い罪であっても断固とした対応をとった。公職に就く人間を自ら選び、平民や外国人であっても起用した。自分に完全に依存した人々で側近を固めることで権力を強化し、独断で側近の任命、罷免、果ては処刑まで行うためだ。
父親と兄の暗殺に関わった貴族たちへの復讐計画も、着実に実行に移した。1459年、イースターの晩さん会にそのうちの200人を家族とともに招待して、女性と老人はその場で処刑し、串刺しにした。男たちは強制労働に就かせ、死ぬまで酷使した。こうして建てられたポエナリ城は、ヴラド3世お気に入りの居城となった。
敵に対する残虐な行為は、時には自国民へも向けられた。ホームレスや乞食は盗人とみなし、彼らを晩さん会へ招待してドアに鍵をかけ、火を放って焼き殺した。ロマ民族も、虐殺したり軍へ強制入隊させたりした。ドイツ系住人に対しては重い税をかけ、納税を拒否した人々の商行為を禁止した。
ヴラド3世の影響下にあったドイツ系住人の多くは、12世紀にハンガリーがトランシルバニア地方を支配していたときに移住してきたザクセン人だった。ほとんどが裕福な商人だったが、ヴラド3世にとって彼らは敵であるハンガリーの同盟者だった。
ヴラド3世は、その後数年間でザクセン人の村々を根こそぎ破壊し、数千人を串刺しにした。1459年に、トランシルバニアのクロンスタットというザクセン人の町(現代のブラショフ)がヴラド3世のライバルを支持すると、ワラキアでのザクセン人の商売に規制をかけ、3万人を串刺しにし、クロンスタットの町を焼き払った。さらに、人々の苦しむ姿を直接楽しむため、串刺しにされた人々を前にして食事をとったという言い伝えもある。ワラキアへ戻ったヴラド3世は、さらに規制に違反したザクセンの商人たちをも串刺しにした。
こうして、いつしかヴラド3世は敵から「串刺し公」と呼ばれるようになる。
