11歳の夏のある日、アキヤマさんは姉に頼まれて日本軍の水上機基地で働く義兄に弁当を届けに行ったという。自転車で基地に到着した彼女は、2人の白人が何かを釈明しようとしていて、そのまわりに人だかりができているのを見た。しかし、近くで日本人の警備員が話しているのを聞いた彼女は、そのうちの1人がズボンをはいた短髪の女性であることを知った。「そんな服装の女性は見たことがありませんでした」とアキヤマさんは言う。

彼女は木の陰に隠れて騒動を見守り、帰宅後、基地で見たことを母親に話した。娘がトラブルに巻き込まれることを心配した母親は、そのことは誰にも言ってはならないと命じた。
アキヤマさんは母親の言いつけを長く守った。第2次世界大戦後、サイパンは米国の支配下に置かれ、20歳になった彼女は海軍の歯科医カシミール・シェフト氏の助手として働きはじめた。ある日、職場でアメリア・イアハートの話になった。彼女はイアハートのことを知らなかったし、「パイロット」という英単語も知らなかったが、シェフト氏に「女性パイロットを見たことはあるかい?」と聞かれたときに「あります」と答えてしまった。
彼女はのちに、自分の一言から話が爆発的に大きくなっていくことを知っていたら、そうは答えなかったと回想している。

アキヤマさんがシェフト氏に具体的に何を話したかについては、両者の証言に食い違いがある。なにしろ、大昔のことなのだ。確かなのは、この話に尾ひれがついていったことだ。シェフト氏はこの話をポール・ブリアン氏に教え、ブリアン氏は1960年にイアハートの伝記を出版した。伝記ではアキヤマさんが、イアハートの飛行機はサイパンに墜落し、イアハートとヌーナンは銃殺刑に処されたと語ったことになっている。
この本が出版されてから数カ月後、米国カリフォルニア州サンマテオの地方紙『サンマテオ・タイムズ』が1面トップで「サンマテオ在住の人物、アメリア・イアハートは日本軍に処刑されたと証言」と報じた。1955年にサンマテオに引っ越してきていたアキヤマさんは、「私はそんなことは言っていません」と反論した。彼女の息子のエドは、「新聞に住所が載ったので、知らない人が電話をかけてきたり家に来たりして驚きました」と振り返る。

物語は制御不能に陥った。CBSラジオの記者フレッド・ゲーナー氏は何度もサイパンに足を運び、白人女性を見たという人をほかにも見つけ出した。しかし、特にイアハートとヌーナンがどのように死亡したかという点について、彼らの話は矛盾していた。指輪、ブリーフケース、日記などの物的証拠は、どれもいつの間にか消えてしまった。ゲーナー氏は、イアハートは米国政府に命じられたミッションに失敗し、政府が隠蔽工作を行ったのだと主張した。イアハートは島から追放され、ニュージャージー州で身分を偽って生活していたとする、途方もない説も出てきた。
アキヤマさんは、こうした一連の出来事については気にしていなかった。彼女が望んだのは公平に扱われることだけだった。彼女は、自分が見た光景について何度もインタビューに応じたが、彼女の息子は、「母はいつも自分が相手に利用されていると感じていました」と言う。

ミスの連鎖が墜落をもたらした
アキヤマさんが意図せずに論争に巻き込まれたのに対して、エルゲン・ロング氏は明確な意志を持ってこの論争に参入した。彼は第2次世界大戦中に太平洋で海軍の飛行機の無線技士として勤務し、ハウランド島の上空を何度も哨戒飛行していた。「イアハートとヌーナンがこの島を見つけられなかった理由が、私には理解できませんでした」と彼は言う。