
まるで魔法を見るようだ。冷たい水が一滴、パスティス酒を満たしたグラスに落ちると、透明だった酒は濁った淡い黄色に変わる。そしてアニスの濃厚な香りがグラスから立ち昇るのだ。
パスティスは、地中海の乾燥した景色と文化のるつぼから生まれた。アニスを使った酒は、フランス以外にもある。ギリシャにはウーゾ、イタリアにはサンブーカ、トルコにはラクといった酒があり、いずれも食後にショットで飲み干す食後酒だ。
一方、パスティスは食前酒だ。飲み方には、冒頭で紹介したような作法がある。蒸留酒に甘みや香りを付けたこの酒は、五感を目覚めさせ、心をリラックスさせてくれる。
昔から、パスティスといえばフランスののどかな村の広場を連想させる。バーに置かれている銘柄は少なく、リカールとペルノの2種類ということが多い。だが今、新進気鋭の醸造家たちの活躍で、さまざまなハーブを加えたパスティスが登場している。パスティスの新たな波が訪れているのだ。
原点はアブサン
パスティスの原点は、アニスを使ったことでよく知られている薬草酒「アブサン」にある。1860年代、フランスのぶどう園はフィロキセラという害虫の影響で、ワイン生産が大きな被害を受けた。そんな中、人々が目を向けたのが通称「緑の妖精」と呼ばれるアブサンだった。
ところが20世紀に入ると、アブサンは世界の多くの国で禁止される。ワインやビールに比べて度数が高いうえ、原料のニガヨモギの成分が中毒症状や道徳に反する行動を引き起こすと考えられていたからだ。それでもアニスを原料とした蒸留酒は、すでに人々の間で一つのジャンルとして定着していた。
アブサンの主な製造元だったのがペルノ社だ。同社は、フランス東部のポンタリエでアニスの蒸留酒を使ったリキュールづくりを始め、やがてアビニョンでもこれを製造するようになった。一方、プロバンス地方では、アルコールにハーブを漬け込むという素朴な方法でパスティスが醸造されていた。パスティスは古くからあったが、代表的な銘柄も品評会のたぐいも存在しなかった。それを変えた人物こそポール・リカールだ。
「祖父はワイン商人の息子でした」と、リカールの孫であるフランソワ・ザビエ氏は言う。「画家になりたかったようですが、父親から家業を手伝うよう言われ、その後はさまざまな役割を学び、やがて業界の文化を熟知するようになりました」
