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YouTube動画でマイケル・ジャクソン役に抜てき

新しい流れということでは、マイケル・ジャクソンの半生を描く『MJ』でミュージカル主演男優賞を取ったマイルズ・フロストは、高校の学園祭で披露したマイケルのパフォーマンスの動画がYouTubeで人気となり、スカウトされてブロードウェイ・デビューを果たしたという異例の経歴です。マイケルを演じるのだから、求められるダンスと歌のレベルは高いし、似ているだけではだめで、世界中のマイケルのファンを満足させるものがないといけない。そんな相当高いハードルでキャスティングされて、初舞台で主演男優賞をとるのだからすごい才能です。見ていると、飾らないし、気負いもなくて、とても魅力的な男優さんでした。『ア・ストレンジ・ループ』で主演男優賞にノミネートされたジャクエル・スパイヴィーも初舞台でした。コロナ禍でオーディションができなかったという事情があるのかもしれませんが、新人のデビューにも新しい形が出てきているようです。

僕が授賞式で印象に残ったのは、スイングと呼ばれている代役の人たちへの感謝や称賛をみんなが口々に語っていたこと。スイングの人たちは、それぞれがいくつかの役をカバーしていて、誰かが舞台に出られなくなったら、すぐに代役で入れるよう常に準備をしています。今までも必要な存在でしたが、長いコロナ禍を経て、公演を回していくために欠かせない役割だという認識がより強くなったのでしょう。舞台袖からの中継では、舞台監督がスポットを浴びたりもしました。授賞式の在りようが、今までは表に出る人たちがメインだったけど、裏方さんを含めてみんなで作品をつくっていることを強調するように変わってきたように感じ、それは素晴らしいことだし、健全なことでもあると思いました。

受賞者のパフォーマンスでは、『パラダイス・スクエア』でミュージカル主演女優賞を受賞したジョアキーナ・カラカンゴの歌が素晴らしくて、感動しました。たぶん体調が万全ではなかったのでしょう。歌い上げるナンバーなのですが、声が出づらいなかで、それでもあきらめずに歌いきって、涙を流しながらのパフォーマンスでした。その姿に勇気づけられました。やっぱりトニー賞授賞式のような一世一代の場で歌うとなると、誰もがベストなコンディションで臨みたいはずです。でも、そうじゃなかったときにも、決してあきらめないことが大事なんだ。必ずしも完璧なパフォーマンスだけが人を感動させるわけではなくて、むしろどういう気持ちで挑んでいるかに人は感動するんだ。それをすごく感じました。歌い終わったら、客席は総立ちで拍手喝采の嵐でしたから。自分たちも人前に立つとき、今日はベストな体調じゃないな、というときが多々あります。そういうとき、彼女のパフォーマンスを思い出すと、勇気をもらえそうです。

僕自身のパフォーマンスでいえば、番組の冒頭で『Beat It』『I'll Be There』の2曲を『MJ』オマージュメドレーとして、エマさんと一緒に披露しました。毎年スタジオで歌ってはいたのですが、今年はちょうど『ガイズ&ドールズ』が開幕したばかりで、事前に準備する時間があまりありませんでした。それでも何かやりたいと思い、『MJ』からよく知られているこの2曲を歌いました。自分なりのベストを尽くすという意味で、やらせてもらいました。やっぱり、見ている人を少しでも楽しませたかったり、自分にできる限りのことはしたいという思いは、僕にもありますね。

万全の準備をして、今できるベストを尽くす

『ガイズ&ドールズ』は、公演関係者に新型コロナウイルスの陽性反応が確認されたため、6月26日~7月6日までの公演が中止となりました。6月21~22日の公演が中止となったのに続いての中止で、来場を楽しみにされていたお客様には、申し訳ない気持ちでいっぱいです。ブロードウェイが元に戻ってきたという話の後ではありますが、やはりまだコロナ禍は終わってなくて、演劇公演のリスクをあらためて感じています。

僕たちは毎日、劇場に来ていただいたお客さまに舞台をしっかり届けることに懸けているので、それが自分たちではどうしようもない理由でできなくなるのは、何度経験してもショックで悲しいことです。でも、いつ誰が感染してもおかしくないというのを前提でやっているし、僕自身も経験がありますが、当事者の気持ちを考えると大きく騒ぐべきでもないので、冷静に物事を進めていくことが大事だと思っています。

これは僕の考えですけど、毎日舞台ができるのはもちろん大事ですが、人生において大切なことはたくさんあるし、なかでも健康や命は一番大切なので、休むべきときにはそうして、あまり思い詰める必要はないと思うのです。今できないのなら、いつならできるのか、どうしたらできるようになるのか。それを考えて準備をしておくしかないし、そうすべきでしょう。同時に、経済的な損失への補償や、公演を中止する基準も感染状況や医学的根拠に従って変わっていくべきだとも思います。

1年半の長きにわたって劇場の閉鎖が続いたブロードウェイも、公演ができなかったときにしっかり準備してきたことが、今につながっています。僕たちにできるのは、起こったことだけに一喜一憂せず、万全の準備をして、今できるベストを尽くすこと。それは舞台に限らずでしょうし、この3年にわたるコロナ禍で学んだことでもあります。

『夢をかける』 井上芳雄・著
 ミュージカルを中心に様々な舞台で活躍する一方、歌手やドラマなど多岐にわたるジャンルで活動する井上芳雄のデビュー20周年記念出版。NIKKEI STYLEエンタメ!チャンネルで月2回連載中の「井上芳雄 エンタメ通信」を初めて単行本化。2017年7月から2020年11月まで約3年半のコラムを「ショー・マスト・ゴー・オン」「ミュージカル」「ストレートプレイ」「歌手」「新ジャンル」「レジェンド」というテーマ別に再構成して、書き下ろしを加えました。特に2020年は、コロナ禍で演劇界は大きな打撃を受けました。その逆境のなかでデビュー20周年イヤーを迎えた井上が、何を思い、どんな日々を送り、未来に何を残そうとしているのか。明日への希望や勇気が詰まった1冊です。
(日経BP/2970円・税込み)
井上芳雄
 1979年7月6日生まれ。福岡県出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。大学在学中の2000年に、ミュージカル『エリザベート』の皇太子ルドルフ役でデビュー。以降、ミュージカル、ストレートプレイの舞台を中心に活躍。CD制作、コンサートなどの音楽活動にも取り組む一方、テレビ、映画など映像にも活動の幅を広げている。著書に『ミュージカル俳優という仕事』(日経BP)、『夢をかける』(日経BP)。

「井上芳雄 エンタメ通信」は毎月第1、第3土曜に掲載。第119回は7月16日(土)の予定です。


夢をかける

著者 : 井上芳雄
出版 : 日経BP
価格 : 2,970 円(税込み)