日経ナショナル ジオグラフィック社

フラの復活が始まったのは1833年、デビッド・カラカウア王の時代だった。この王は自身の華やかな戴冠式を、当時新築したばかりで、現在はホノルル市内の博物館になっているイオラニ宮殿で行った。伝統文化を庇護(ひご)したことから「メリー・モナーク(陽気な君主)」と呼ばれたカラカウア王は、2週間続く戴冠の祝祭に、かつては禁じられていたフラのダンスや音楽、宴(ルアウ)などのハワイの伝統を大いに採り入れた。

ホノルルのイオラニ宮殿前でパフォーマンスを披露するフラダンサーの姿をとらえた19世紀の写真。この宮殿は現在、博物館になり、定期的にフラの実演を行っている(PHOTOGRAPH BY MICHAEL MASLAN, CORBIS/VCG/GETTY IMAGES)

キリスト教は、フラに変化をもたらした。詠唱はよりメロディアスな、キリスト教の賛美歌に似たものになった。踊りは古代の神々ではなく、ハワイの君主を称(たた)えるようになった。「島の誕生の物語は、もう語られなくなりました」とカモホアリイ氏は言う。「その代わり、花や雨、王や女王について語るようになったのです」

このときの復活は、長続きはしなかった。1893年、カラカウア王の後継者であるリリウオカラニ女王が米国の実業家たちによって王位を追われると、フラは再び敬遠されるようになる。1898年、ハワイは米国に併合され、2年後には準州となった。

フラのステレオタイプ化

米国本土でハワイの文化が多くの人に知られるようになったきっかけは、1915年にサンフランシスコで開催されたパナマ・太平洋万国博覧会だった。これによってハワイは一大ブームとなり、セロハンのスカートにココナツの殻のブラジャーをつけて踊るような、うわべだけをまねたフラが、ハリウッド映画や飲食店、大衆的なボードビルショーに数多く登場した。

1920年代に外洋クルーズの人気が高まると、米国本土から何千人もの旅行者がホノルルに押し寄せ、ワイキキビーチの白い砂浜沿いには、ロイヤルハワイアンなどのホテルが立ち並んだ。

20世紀半ばの旅行ポスターでは、フラダンサーたちがまるで20世紀半ばの旅行ポスターでは、フラダンサーたちはグラビアモデルのような描き方がされていた(PHOTOGRAPH BY SWIM INK 2 LLC, CORBIS/CORBIS GETTY IMAGES)
図案化したフラのスカートを採用したパンアメリカン航空のビンテージポスター(PHOTOGRAPH BY POTTER AND POTTER AUCTIONS, GADO/GETTY IMAGES)

地元の人々がレイ(首にかける花輪)やフラで旅行者を出迎える企画が成功を収めると、1937年には無料で楽しめる「コダック・フラ・ショー」がワイキキで開始された。「ああしたショーによって、フラへの注目度は高まりました」と話すのは、ハワイ州観光局のカイノア・デインズ氏だ。「残念ながら、そこからステレオタイプや誤解が生み出され、フラは単に腰や腕を振り回す、娯楽のためのダンスとみなされるようになったのです」

ハワイのアイデンティティーはその後も損なわれ続け、そうした状態は準州時代から、1959年にハワイが州になった直後まで変わらなかった。ハワイ語は学校では教えられず、子供たちがハワイ語を話すと罰せられることも少なくなかった。その結果、ハワイ語はほぼ消滅した。言葉が消えると、常にハワイ語の詠唱とともにあったフラもまた、忘れ去られる危機に陥った。

フラの復活

20世紀半ばは急速な変化の時代だった。1960年代の公民権運動は、米国の黒人の生活を向上させ、また1970年代のハワイ文化復興運動に影響を与えた。「わたしたちはこう言い合いました。『法律を変える必要がある。子供たちにハワイ語の名前をつけられるようにしなければならない。自分たちの言葉を話せるようにしなければならない』」とカモホアリイ氏は言う。1978年、州憲法が改正され、ハワイ語がふたつの州語のうちのひとつとなり、公立学校ではダンスを含むハワイの文化、言語、歴史を教えることが義務づけられた。

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舞台からリゾートまで