街の中心に据えられた豪壮な墓
マウソロス王は生前から自らの墓の建築に着手していた。墓の場所は街の中心部であり、すでにそれ自体が例外的であった。古代世界においては、埋葬は城壁の外で行われることがほとんどだった。街の中心に据えられる豪壮な墓は、マウソロスは強大なカリアの王であるという明確なメッセージを伝えていた。

紀元前353年、マウソロスは、墓の建設が始まってまもなくこの世を去った。彼の跡を継いだ王妃アルテミシアは、夫の名声の証となる壮大な墓を完成させるために、地中海各地から職人を呼び寄せた。墓の設計を任されたのは、パロスのサテュロスとプリエネのピュティオスだった。サテュロスは、生涯を通じてマウソロスの一族のために働いてきた職人だった。ピュティオスは影響力のある建築家で、設計だけでなく建築論でも知られていた。
墓を装飾する仕事を任されたのは、それぞれが同じくらいすぐれた技術を持つとされた4人あるいは5人の彫刻家で、各人が霊廟のひとつの面を担当した。1世紀、ローマの学者である大プリニウスは著書『博物誌』の中で、4人の彫刻家(スコパス、ブリュアクシス、ティモテウス、レオカレス)の名を挙げたうえで、なぜか名前を明かさずに5人目の存在を示唆している。1世紀に活躍したローマの建築家ウィトルウィウスは、4人の中にはティモテウスではなく、名工プラクシテレスが入っていたと書いている。このほか、プラクシテレスが担当したのは、屋根の上にある戦車およびマウソロスとアルテミシアの彫像であったとする説もある。
正確な担当がどうだったにせよ、この彫刻家たちはまさにドリームチームだった。プラクシテレスとスコパスは、当時もっとも偉大な彫刻家と評されていた。このほかにも、墓のさまざまな部分を担当するために何百人もの職人たちが雇われた。アルテミシアは、夫の死後、わずか2年しか生きられなかった。彼女が亡くなった時点でマウソロス霊廟はまだ完成していなかったが、職人たちはそのまま残り、仕事は継続された。

長く残った霊廟
霊廟が完成すると、マウソロスとアルテミシアの遺灰は、隠し扉から入ることができる地下の一室に収められた。石のブロックが入り口を隠しており、その向こう側には、狭い廊下と前室、そして遺灰を収めた四角い部屋があった。
この建物は、すぐに広く知られるようになった。霊廟に感銘を受けた著名な詩人シドンのアンティパトロスは、紀元前2世紀、ある頌歌の中で「世界の七不思議」のひとつとしてこれに言及している。この巨大な墓は、偉人たちを記念して建てられる建造物の設計に影響を及ぼし、マウソロスの名前に由来する「マウソレウム」という言葉は、壮大な墓(霊廟)を意味するようになった。
マウソロスの霊廟は、約1700年の間、しっかりと立ち続けた。完成から約16年後の紀元前334年には、アレクサンドロス大王によるハリカルナッソス征服をほぼ無傷のまま耐え抜いた。中世には幾度もの地震による被害を受けたが、15世紀初頭になってもこの霊廟はそびえ立っていた。

ホスピタル騎士団(聖ヨハネ騎士団)が街にやってきたのは、この時代のことだ。ハリカルナッソスがあった場所は、ビザンチン帝国の港町ボドルムとなっていた。元は十字軍として活躍していたこの騎士団は、聖地エルサレムから追われた後、ドデカネス諸島に居を定め、ロードス島に本部を置いた。1400年代初頭にボドルムを占拠してまもなく、彼らは聖ペテロにささげるための城塞ペトロニウムを建設した。
残念なことに、このとき職人たちはマウソロス霊廟の高品質の切石を、城塞建設のために使った。ボドルムが1522年にトルコに陥落した際、マウソロス霊廟はほぼ完全に破壊され、やがてその場所も忘れられていった。1856年になってようやく、英国人考古学者チャールズ・トーマス・ニュートンが、ボドルムの中心部を調査している最中に、土に埋もれたこの見事な記念碑の痕跡を発見した。
この遺跡の探索は、その後100年にわたって繰り返し行われたが、1966年から1977年にかけて、クリスチャン・イェッペセンとデンマークの考古学者チームがとくに詳細な調査を実施しており、この古代世界の驚異の建造物についてわたしたちが知ることができたのは、主に彼らの研究のおかげといえる。
(文 EVA TOBALINA ORÁA、訳 北村京子、日経ナショナル ジオグラフィック)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2022年12月19日付]