日経ナショナル ジオグラフィック社

科学への影響

今回のサンプルの競売が科学に及ぼす影響については、科学者の間で意見が分かれている。

「どのサンプルも重要で、新しい事実を教えてくれる可能性がある、と答えるのがお約束です」と、米ベイラー大学の惑星地球物理学者ピーター・ジェームズ氏は言う。しかし、1969年から1972年にかけて月面着陸に成功した6回のアポロ計画では合計382キログラムのサンプルが持ち帰られており、今回オークションに出品されたサンプルは、そのほんの一部にすぎない。今回のサンプルはすでにNASAによって分析されているうえ、これよりもはるかに大きな同様のサンプルが現在も研究に利用できるため、ジェームズ氏は、今回の競売が科学者にとって大きな損失であるとは考えていない。

その一方で、地球に持ち帰られたサンプルの一つひとつが月の歴史と地質について新しい情報をもたらしてきたことも事実だ。月の石の分析結果は、月の起源に関する最も有力な仮説につながった。つまり、生まれたばかりの地球に火星サイズの天体が衝突し、舞い上がった破片が放出され、やがて冷え固まって地球唯一の自然衛星になったというジャイアント・インパクト説だ。

月には今でも驚くほど大量の水が存在していることを明らかにしたのも、アポロ計画で持ち帰られたサンプルの研究だった。1960年代末から1970年代初頭にかけて行われた初期の分析では、岩石中に閉じ込められた微量の水は検出できなかった。しかし、月を周回する探査機が水の痕跡を発見したことを受け、アポロ計画による月の石を超高感度の機器を用いて分析しなおしたところ、水の存在が確認された。

月の水は、人類が再び月を訪れたり、その他の天体に進出したりするための鍵となる。将来、この水を利用できるようになれば、宇宙への旅人が地球から持ち出す荷物を減らせるからだ。

科学者たちは今も、アポロ計画が持ち帰った月の石を研究している。NASAの宇宙化学者ジェイミー・エルシラ・クック氏は2019年に、サンプルの一部は「まだ生まれていない科学者が、まだ開発されていない機器を使って、まだ問われていない疑問に答えるために使えるように」長期保管されていると語っている。

2022年の3月にも、1972年に採取・封印されたサンプルの1つが開封された。人類を再び月に送り込むNASAの「アルテミス計画」の策定に役立てるためだ。

カナダ、ライアソン大学の惑星科学者で教育開発者でもあるサラ・マズルーイ氏は、研究者たちがほんの小さな月の塵を研究できることを願いながら、多大な労力を費やして研究計画書を作成している点を強調し、「オークションで売られるのを見るのは、あまりいい心地はしません」と話す。

だがマズルーイ氏は、今回の競売により、月のサンプルを教育のために利用できる可能性が広がるかもしれないと、かすかな希望を抱いている。「いつかは、エリート科学者でなくても月のサンプルを入手できるようになるかもしれません」

月の資源は誰のもの?

宇宙法の専門家は、今回の競売を少し違った角度から見ている。多くの国が、月やその先の天体へのミッションに向けた準備を進めているなかで、宇宙資源の採掘と利用が、近い将来に現実のものとなるかもしれない。このような活動は、1967年に発効した「宇宙条約」の適用を受ける。

宇宙条約は、現代の宇宙法の基礎となる国際協定だ。宇宙での軍事作戦の禁止や、地球外の天体の領有権を主張することの禁止など、将来の宇宙活動に関する指針を与えているが、不十分な点も多い。例えば「宇宙資源の利用は想定されていませんでした」と、米セキュアワールド財団の宇宙法顧問で米ジョージタウン大学の特任教授を務めるクリストファー・ジョンソン氏は説明する。

近年、米国やアラブ首長国連邦(UAE)を含むいくつかの国では、天体から採取した資源の所有権を国民に認める法律が制定されている。今回の競売は、宇宙資源の所有、使用、転売の合法性をさらに強固なものにするものだと、ジョンソン氏は指摘する。

米クリーブランド・マーシャル法科大学院の国際宇宙法の専門家マーク・サンダール氏は、月の資源の採掘と売買について一般の人々が話すきっかけになる訴訟は、どんなものでも有益だと言う。宇宙資源の採掘を実現させるためには、公共の利益と個人の利益のバランスについて多くの議論が必要だ。

「この問題については、私たちは出発点に立ったばかりです」とサンダール氏は話す。

(文 MAYA WEI-HAAS、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック)

[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2022年4月15日付]