
1806年、フランスのグルノーブル・アカデミーに提出された論文は、2つの点で注目に値するものだった。第一に、著者がまだ16歳であったこと。そして第二に、その博識な若者が極めて大胆な提唱を行ったことだ。
彼は、古代エジプトの言語がアフリカのコプト語という形で受け継がれていると主張した。その見解は完全に正しかったわけではないが(コプト語は古代エジプトの言語と同一ではなく、そこから派生したもの)、後にそれが19世紀最大の学術的な謎の解決に貢献することとなる。
その若き学者の名は、ジャン・フランソワ・シャンポリオン。1790年、フランス南部の町フィジャックの生まれで、古代の言語に興味を持ち、ギリシャ語、ラテン語、アムハラ語(セム語派の言語で、エチオピアで使われている)、中国語、コプト語を学んだ。
ロゼッタストーンの秘密
シャンポリオンは、特にコプト語に強く魅了された。そしてそれは、彼が子供の頃にフランスから遠く離れた地で発見されたある遺物にとって、後々重要な意味を持つことになる。
ナポレオンによるエジプト侵攻から1年後の1799年、アル・ラシド(イタリア人とフランス人からはロゼッタと呼ばれていた町)に近い要塞を修復していたフランス兵が、建物の一部に使用された石にエジプトの古代文字であるヒエログリフが刻まれていることに気づいた。それらは古い建造物から持ち出されたもののようで、なかには、ヒエログリフだけでなく、ギリシャ語ともう一つの文字が書かれた石碑が含まれていた(第三の文字は、今ではデモティック、または民衆文字として知られている)。
ヒエログリフは、古代エジプト王朝が滅んだ後は次第に使用されなくなり、4世紀末には完全に消滅した。それ以降、この文字を読んだり書いたりできる者はいなくなった。そのため、18世紀末の学者にとってヒエログリフの解読は悲願になっていた。
ロゼッタストーン発見のニュースは、フランスが新たに設立したばかりのエジプト研究所にもたらされた。1799年9月15日、同研究所は、石に書かれているギリシャ語がヒエログリフの翻訳であるとすれば、このロゼッタストーンがヒエログリフ解読の重要な手掛かりになるかもしれないとする報告書を出した。

ところが、ナポレオンの軍隊が英国軍に敗れたため、フランスに運ばれるはずだったロゼッタストーンはイングランドへ移送され、大英博物館のエジプトコレクションに加えられた。
ロゼッタストーンのギリシャ語を翻訳した結果、それは紀元前180年に死んだプトレマイオス5世エピファネスによる勅令であることがわかった。プトレマイオス5世の祖先はギリシャ語を話し、紀元前4世紀にエジプトにプトレマイオス朝を打ち立てた。そのため、プトレマイオス5世もギリシャ語を使用していた。一方ヒエログリフは、神殿と司祭に限定して使用された言語だった。
こうして、ギリシャ語を使って、それに対応するヒエログリフの文字を解読しようという試みが各国で始まった。解読に成功すれば、エジプト文明とその知識をひもとくことができるだろう。
ヒエログリフのなかでファラオの名を特定したのは、英国人学者のトーマス・ヤングだった。さらにフランスでは、学者のアントワーヌ・イザーク・シルヴェストル・ド・サシと、スウェーデンの外交官ヨハン・ダヴィド・オーケルブラドが、ロゼッタストーンやそのほかの文に描かれているカルトゥーシュ(ヒエログリフの一つで、王族の名を囲んでいる楕円形の枠)に囲まれた王や女王の名前の表音記号を正しく読み解いた。