古代の文献に記載されたシルフィウムは、当時の最も有名な交易品として、キレナイカの硬貨にも描かれた。ミスキ氏は2021年1月6日付で学術誌「Plants」に論文を発表し、シルフィウムとフェルラ・ドルデアナに多くの共通点があることを示した。例えば、両者ともに、朝鮮人参のような太く枝分かれした根、根元から生えるシダのような葉、溝がついた茎、豪華な球状の花房、セロリのような葉、薄くてもろい、ハートを逆さにしたような形の実を持っていた。

共通しているのは外見的特徴だけではない。文献によると、シルフィウムは大雨の後に急に現れたという。ミスキ氏もまた、4月にカッパドキアに雨が降った後、フェルラ・ドルデアナが突然芽を出し、わずか1カ月で1.8メートルに成長したのを目の当たりにした。
古代のシルフィウムは栽培が難しかったため、野生のものを収穫するしかなかった。キレナイカの貴族たちは、この仕事を砂漠に住む遊牧民に任せた。ヒポクラテスによると、2度にわたってギリシャ本土への移植が試みられたが、いずれも失敗に終わったという。
フェルラ・ドルデアナもまた、移植が難しいことにミスキ氏は気付いた。そこで、種子に低温湿潤処理(湿度の高い冬のような状態において発芽を促す)を試したところ、ようやく温室内での繁殖に成功した。
故郷を遠く離れ
文献に書かれているシルフィウムがフェルラ・ドルデアナである可能性はかなり高いが、問題はその分布域だ。最高のシルフィウムはキュレネ(現代のリビアの街シャハトがある場所)周辺の狭い範囲でしか産出しないという記述で、古代の文献は一致している。
トルコのハッサン山麓は、そこから北東に1300キロメートル離れた地中海の反対側に位置する。ミスキ氏は、学会などでこの研究を発表する際、フェルラ・ドルデアナがトルコの2カ所で記録されている点を強調している。そのどちらにも、古代からギリシャ人たちが住んでいた。
2021年10月、少年時代にミスキ氏をフェルラ・ドルデアナまで案内したメーメット・アタ氏が、今度は筆者を連れて自分が育った家を案内してくれた。火山性の岩に作りつけられた薄暗い家には、今は誰も住んでいない。既に孫もいるというアタ氏の家族は、1923年にこの地域からギリシャ人が追放された後に、この家を手に入れたという。
それ以前はアレクサンドロス大王の時代から、アナトリア中央部の村々にはギリシャ系の人々が住んでいた。その中の交易商か農民が、2000年ほど前に北アフリカから送られたシルフィウムの種をまいて育てようとしたのではないかと、ミスキ氏は考えている。
「成長するまでに少なくとも10年かかりますから、種をまいたあと忘れてしまった可能性はあります。けれどその後、野生で成長し続け、この小さな地域に根付いたのではないでしょうか。最初に種をまいた農民の子孫たちは、それが何なのかわからなくなっていたのかもしれません」
大英博物館の博士研究員であり、ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラーのリサ・ブリッグス氏によれば、フェルラ・ドルデアナとシルフィウムが同じものかどうか確かめる唯一の方法は、シルフィウムを手に入れることだという。例えば、どこかの遺跡でシルフィウムと明記された壺(つぼ)か何かを発見して、中の残留物をフェルラ・ドルデアナと比較してみるしかない。

食材として
しかし、それがかなわない今、できることは、フェルラ・ドルデアナを食べてみることだ。「古代の人々にとってはその効能も重要でしたが、シルフィウムは主に調味料として使われていました」と、英ロンドン大学ロイヤルホロウェイの植物考古学准教授であるエリカ・ローワン氏は言う。
昔の医学書は細かい部分があいまいなことが多いが、古代の料理本には、量や調理法が詳しく記載されている。有名なものは、4世紀に完成した『アピシウス』という料理本で、475のレシピが集められ、そのなかにはシルフィウムを使ったレシピも数十種類含まれていた。タイトルは、ローマ皇帝ティベリウスの時代(在位:西暦14~37年)に美食家として知られていたアピシウスの名に由来している。