アンコールの魅力
その後も、アンコールは数世紀にわたって海外からの旅行者を引き寄せ続けた。マレーシアのイスラム教徒をはじめとする東南アジアの商人、日本の仏教徒など、多くの人がカンボジアを訪れるようになったのだ。アンコール・ワットの壁に落書きを残した人さえいた(1612年から1632年までの間に、14の落書きが描かれたことがわかっている)。アンコールの最古の地図として、注釈付きのカラーの図面が残されているが、それは日本人によるものだ。

ヨーロッパ人のアンコールへの憧れが最高潮に達したのは19世紀だった。フランス人探検家であり博物学者のアンリ・ムーオは、英国王立地理学会の援助を受け、1858年4月、愛犬のティンティンとともにタイのバンコクに向けて出港し、1859年後半にアンコールにやってきた。ヨーロッパ人コレクターのために、現地の植物や動物の標本を集めるためだった。
ムーオは3カ月をかけてアンコールを調査し、多くのスケッチや日記を残した。その記録には、アンコールのことだけでなく、クメールの人々のことも記されている。
「この地方は、今もアンコールという名で呼ばれている。なんという壮大な遺跡だろうか。初めて見た者は深い畏敬の念に満たされる。そして、この高度な文明や知識を持ち、このような巨大な建造物を作り上げた強力な民族はいったいどうなったのかと問わずにはいられなくなる」

1864年に、精緻なスケッチを含むムーオの著作が出版されると、ヨーロッパ人たちの関心がアンコールに向けられるようになった。1867年には、メコン川の流域調査を行うという名目で、フランスの探検隊がこの地を訪れた。メンバーの1人、ルイ・ドラポルトという若く有望な芸術家が描いたアンコールのイラストによって、その人気は確かなものになった。カンボジア芸術の複製品は、1867年から1922年の間に開催された主要な万国博覧会でも展示され、1931年のパリ植民地博覧会では、アンコール・ワットの実物大模型まで作られた。
(文 VERONICA WALKER、訳 鈴木和博、日経ナショナル ジオグラフィック)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2022年5月22日付]