仙太郎には、人々の不幸がまったく腑(ふ)に落ちなかった。彼は小さな店を開いて、この魔法の島に落ち着き、永遠に暮らすことになった。だが、300年が過ぎると、彼も単調な生活に飽きてしまった。商売ははかどらないし、近隣の人々とは喧嘩(けんか)が絶えない。何もかもが退屈で無意味に思えた。

かつて、不死にしてくれるように徐福に祈った彼は、とうとう徐福に再び祈り、死を免れぬ地へ連れ戻してくれるように懇願した。すると、たちまち紙の鶴が袖の中から飛び出し、大きくなった。仙太郎はその背に乗り、飛び立った。

だが帰る途中、ひどい嵐に見舞われた。紙の鶴はもみくちゃにされ、海に墜(お)ちた。仙太郎が沈むまいともがいていると、巨大なサメが、恐ろしい口を開けて迫ってきた。仙太郎は声をかぎりに徐福の名を呼び、

「助けてくれ」

と叫んだ。

と、その瞬間、彼は目覚めた。そこは、徐福が最初に彼の前に現れた小さな神社だった。仙太郎の思いがけぬ体験は、彼の愚かさを暴くための夢だった。

彼は永遠の生を願ったが、それが退屈であることに気づき、それから、死すべき者たちの地へ戻ることを願っておきながら、依然として死を恐れていたのだから。徐福は仙太郎に、家族のもとに戻って、有徳で有益な人生を送ることを学ぶように言って聞かせた。不死は弱者や愚者のものではないというのが、徐福の教えだった。

「ただ生き続けるだけ」では満足できない人間の性

私たちはみな始皇帝や哀れな仙太郎と同じで、不死を求め、なんとか肉体のはかなさを克服し、ただただ生き続けるように駆り立てられる。この衝動は、生存への本能的意志を果てしない未来に投射する、壮大な想像力から生じる。

だが、私たちに特有の想像力は、永遠が本当はどのようなものなのかを教えてくれるほど優れているのだろうか?

どんな頭脳をもってしても、無限は把握できないので、どれだけ試みても、やり遂げられない。不死を追求するのは、一度として行ったこともなければ、誰一人そこから戻ってきたこともない約束の地への旅を強いられるようなものだ。

この物語が言っているのは、永遠に生きることが悪いということではない。なにしろ徐福自身は賢者たちに許される不死を享受しているのだから。永遠の生は万人向けではないかもしれず、すべての不死が等しいわけではないと言っているのだ。賢者は悟りと永遠の平穏を見いだすが、愚者は自分のつまらぬ人生の繰り返しによって、苦悩へと追いやられる。霊薬を求めるときには、何を手に入れたいのかだけではなく、どんな人間になりたいのかも考えねばならない。

「無数の人が不死をこいねがう。雨降りの日曜の午後に自分を持て余すというのに」と、小説家のスーザン・アーツの言うとおりだ。

多くの物語や伝説は、延命を純然たる善と決めてかかる。とはいえ、大半の文化では、大半の人の間でと同様、次のような小さな声も聞こえる。

だが、それはどのような不死なのか? それは、どこで? 誰と? 霊薬を差し出されたときには、口をつける前に、こうした問いを発すべきだ。

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人生は「そしていつまでも幸せに暮らしました」では終