米国は、すぐにこの新しい政策を実行に移す機会を得た。1947年、英国が、共産主義者による反乱を抑えようとしていたギリシャとトルコに対する援助を打ち切ると発表した。トルーマン米大統領は、これを機に、米国議会に両国を支援する資金を要求し、「トルーマン・ドクトリン」と呼ばれる原則を確立した。米国は、ソ連軍や共産主義者の暴動によって脅かされる国や人々を支援すべきだというものだ。スターリンは、この動きを「影の戦争」の幕開けと見なした。
「冷戦」という言葉は、西側の資本主義と東側の共産主義の間のイデオロギー的な闘争を表す略語になった。米国のジャーナリスト、ウォルター・リップマンが、1947年に発表した一連の記事でこの言葉を流行らせた。
なぜNATOができたのか?
ソ連の影響力を西に拡大し、他の国々を共産主義の支配下に置こうとするスターリンの動きを懸念していたのは米国だけではない。1948年、ソ連はチェコスロバキアで起きたクーデターを支援し、西ベルリンの封鎖を開始した。当時ベルリンは、東は共産主義、西は資本主義が支配する占領地域に分割されていた。
米国とその同盟国は統一戦線を示そうと、大西洋をまたぐ相互防衛同盟である「北大西洋条約機構(NATO)」を結成した。1949年4月4日、米国、カナダ、ベルギー、デンマーク、フランス、アイスランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、英国は、「加盟国のうち1カ国でも武力攻撃を受ければ、それをすべての加盟国に対する攻撃だとみなす」ことに合意し、条約に調印した。
これに対し、ソ連は独自の防衛同盟を結んで対抗した。1955年に締結されたワルシャワ条約は、ソ連に加え、ポーランド、東ドイツなど7つの衛星国を含み、1946年にチャーチルが演説の中で「鉄のカーテン」と呼んだ東西ヨーロッパの思想的・軍事的な壁を強化するものとなった。

世界は核戦争にどこまで近づいたのか?
「鉄のカーテン」を挟んで対峙していた米ソ両国は、何百兆円もの資金を投入して核兵器を蓄積し、軍拡競争を繰り広げた。
当初は米国が有利だった。しかし、ソ連が核兵器を保有するようになると、両国は「相互確証破壊」によって膠着状態に陥った。どちらかが攻撃すれば、もう一方が報復し、双方に破滅的な結果をもたらすという考え方だ。
1962年のキューバ・ミサイル危機は、冷戦の中で最も緊迫した出来事だった。米国は、フロリダ州からわずか145キロ南に位置する共産主義国キューバに、ソ連のミサイル基地と武器があることを察知した。ケネディ大統領は、これらの撤去を要求し、「米国領土を攻撃すれば、直ちにソ連に核攻撃を加える」と宣言した。

2週間近くに及ぶ緊迫した交渉の間、核戦争の脅威は間近に迫っていた。最終的にソ連は、米国がキューバに侵攻しないと約束すればミサイルを撤去することに同意した。このとき水面下では、米国もトルコからの核兵器撤去に合意していたが、この合意が公表されたのは1987年だった。
しかし、その後も双方の核兵器は激増し続けた。1980年代後半には、米国が2万3000発、ソ連が3万9000発の核兵器を保有していたと推定されている。