イスラム教とキリスト教が融合 世界遺産メスキータ

ナショナルジオグラフィック日本版

中央礼拝堂からオレンジの木が立ち並ぶ中庭まで、コルドバのメスキータでは、いたるところにイスラム教とキリスト教の芸術様式が見られる(S. DENG/ALAMY/ACI)

メスキータはスペイン語でイスラム教の礼拝所である「モスク」の意味だが、スペイン、イベリア半島コルドバのメスキータはキリスト教の大聖堂だ。キリスト教の施設がモスクと呼ばれるわけは、その歴史にある。2つの宗教文化が時を重ねて奇跡的に融合し、唯一無二のハーモニーを奏でる建築物。それが世界遺産メスキータだ。

1236年6月30日、カスティーリャ国王フェルナンド3世が、コルドバに入城した。当時イスラム王朝が支配していたイベリア半島ではキリスト教国による再征服(レコンキスタ)が進み、10世紀にイスラム教のウマイヤ朝の首都が置かれていたコルドバも、5カ月に及ぶ包囲の末に陥落した。かつてイベリア半島で最も繁栄し、最も多くの人口を擁していた街はイスラム教徒に捨てられ、アルジャマ・モスクと呼ばれる世界的なイスラムの建造物が後に残された。

メスキータは、イスラム王朝の支配者によって何度か拡張された。同じ形の柱が並ぶ空間は、それがどこまでも続いているような錯覚を起こさせ、実際よりも部屋を広く見せる効果がある(ALAMY/ACI)

フェルナンド3世が入城する前日、カスティーリャ人の一団が街に入り、大モスクへ向かった。そして塔の上に十字架とカスティーリャ王国の旗を立て、建物を聖別し、献堂のミサを執り行った。こうしてアルジャマ・モスクはキリスト教の聖堂に生まれ変わった。

荘厳なモスク

伝説によると、そこはローマ人が紀元前2世紀にコルドバを建設したときに、2つの顔を持つヤヌス神の神殿を建てた場所であるという。それから約800年後の西暦572年、イベリア半島を支配していた西ゴート族のレオビギルド王がコルドバを掌握し、キリスト教のバシリカ(聖堂)を建造した。

メスキータの王室礼拝堂でひざまずいて祈る人々。1836年、チャールズ・ジョセフ・フルマンデルの版画(BRIDGEMAN/ACI)

さらに200年近くが経過した711年ごろ、イスラム教のウマイヤ朝が北アフリカからイベリア半島に入り、その大部分を支配するようになる。

750年ごろに後ウマイヤ朝のアミール(首長)となったアブド・アッラフマーン1世は、コルドバに首都を置いた。ここから、コルドバの発展と栄光の時代が始まる。

自らの地歩を固めたアッラフマーンは、西ゴート族のバシリカを取り壊し、786年に新たなモスクの建設にとりかかった。街は学問と文化の中心地として栄え、イベリア半島全土に数多くの壮麗な建造物が建てられた。788年にアッラフマーンが死んだ後も、未完だったモスクの建設は息子のヒシャームとその後継者によって引き継がれ、2世紀にわたって続けられた。

1833年にコルドバに滞在した英国人画家デビッド・ロバーツが、1849年に描いた絵画。背景に描かれているミフラーブと呼ばれる窓は、メッカの方角を向いている(BRIDGEMAN/ACI)
メスキータの北壁と鐘楼。手前にあるのは、灯火に照らされた聖母マリアの祭壇(ANNA SERRANO/GTRES)

キリスト教の礼拝堂へ

その後1236年にキリスト教による支配に代わってから200年間、モスクに構造的な改築はほとんど加えられず、キリスト教の礼拝堂としてそのまま使用された。工事が行われた部分については、キリスト教美術とイスラム建築・装飾の伝統を組み合わせた当地ならではのムデハル様式が取り入れられた。

この時代の最も目立った改築は、敷地を取り囲む壁の内側に沿って並ぶいくつもの私有礼拝堂の建設だった。キリスト教の支配が始まるとすぐに建設が始まり、街の著名な一家がそこに葬られた。

祖先を埋葬するためにスペイン王エンリケ2世が資金を出して、1371年に建設された王室礼拝堂(ALAMY/ACI)
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