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本能寺の変、事件現場に信長の遺品を追う 本能寺(京都市) 古きを歩けば(6)

2011/10/25

本能寺は事件の10年後、豊臣秀吉の命で現在地に移った。本堂は昭和の再建だ

 1582年、織田信長が明智光秀に攻められ自刃した「本能寺の変」。誰もが知る日本史上の大事件だが、当時の本能寺に関する史料は意外なほど少ない。京都で事件の現場を訪ね、現代に僅かに残る“物証”を追ったが、信長の影はなお遠いようだ。

 現在の本能寺は京都市役所の正面、中京区寺町通御池下ルにある。本能寺の変から10年後、豊臣秀吉による都市計画に従い、事件現場となった旧境内から移ってきた。江戸期にも大火に遭い、今の本堂は昭和に建立されたものだ。「旧境内から移設されたことが文献で裏付けられる施設は、信長の三男信孝が事件直後に慰霊のため建てた石塔『信長公廟(びょう)』しかありません」。同寺の山務職員、久野晃顕さんが教えてくれた。

■事件当時の本能寺は1.2キロ西

 事件当時の本能寺があったのは現在地から約1.2キロ西に離れた中京区元本能寺町周辺。1415年に法華宗(日蓮宗)の僧侶、日隆が京都の別の場所で創建した同寺は、1545年にこの地に移った。西は油小路通、東は西洞院通、北は六角通、南は蛸薬師(四条坊門)通――現代に伝わる同寺の寺地の売券(権利書)にはこう書かれ、広さは約120メートル四方だったようだ。

事件のあった旧境内から移設した記録があるのは、奥に見える石の慰霊塔だけ
旧境内があった京都市中京区元本能寺周辺。当時は“町外れ”だった

 旧境内地は今では京町家やオフィスビルなどがひしめく市街地に姿を変えている。だが戦国時代には京の「町外れ」だった。京の町は応仁の乱以降、盗賊団の襲撃や放火などが横行して荒廃し、平安京時代に比べて市街地が大幅に縮小していたためだ。「天皇が住んでいた内裏のすぐ近くまで田畑が広がっていたようです」。中世史が専門の奈良大学教授、河内将芳さんはこう話す。市街地は「上京」と「下京」に分離しており、周囲には町衆が自衛のために堀や土塁などの防御施設「惣構(そうがまえ)」を巡らせた。本能寺は「下京」の外縁部を占め、惣構に組み込まれていたとみられる。

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