[ナショジオ]兵士が刻んだ第1次大戦の「地下遺産」
フランス
ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発したのは今からちょうど100年前、1914年8月のことだった。私はフランス北東部、ピカルディ地方の地下に残された「知られざる大戦の遺産」を訪れた。
茂みの陰にぽっかり開いた入り口は、動物の巣穴より少し大きいくらい。人里離れた森の中、私たちは真っ暗なその穴をすべり下りた。
通路がやや広くなると手足をついて、はうように進んだ。ヘッドランプの光が、100年前に掘られたトンネルの壁を照らす。下り坂を100メートルほど進むと、石灰岩を削った電話ボックスほどの小部屋に突き当たった。
敵陣の地下にトンネルを掘って爆破
開戦まもない頃、ドイツ軍の工兵は交代で息をひそめてこの小部屋に詰め、敵軍がトンネルを掘るかすかな音を聞きもらすまいと、耳を澄ませていた。くぐもった声やシャベルの音が聞こえれば、トンネルを掘る敵がほんの数メートル先まで迫っていることを意味する。掘削音がやみ、袋や缶をそっと積み上げる音がすれば、敵がトンネル先端に爆薬を仕掛けていることになる。
私たちのヘッドランプは、ドイツ工兵が小部屋のそばの壁に残した落書きを照らし出した。氏名と所属の上に「皇帝に神のご加護を!」とある。鉛筆の筆跡は今もくっきりと鮮明だ。
フランス・ピカルディ地方の白亜や石灰質の岩盤は、トンネルの掘削作戦に向いていたが、兵士たちが生きた証しを残すにも理想的だった。鉛筆で名を記し、スケッチや風刺画を描く者もいれば、浮き彫り(レリーフ)を刻む者もいた。
1914年夏の開戦当初は騎兵部隊も参戦し、当事国は皆、クリスマスまでには片がつくと信じていた。ところが同年暮れまでにドイツの進撃が失速し、塹壕(ざんごう)戦が始まった。やがて北海沿岸からスイス国境まで広範囲に、網の目のように塹壕が掘られた。さらに新兵器の開発競争が進むと、毒ガスを使った化学兵器が初めて大量に使われ、戦闘機や戦車も登場。ベルギーからフランス北東部にかけての西部戦線では、攻撃と反撃がむなしく繰り返され、数百万人の兵士の命が失われていった。
こう着状態のなか、ドイツ軍と、それに相対する英仏両軍は、敵陣の主要拠点の下までトンネルを掘って爆破するという昔ながらの戦法を展開、敵の反撃を阻むためには自軍が掘ったトンネルも爆破した。
塹壕戦がピークを迎えた1916年、英国軍のトンネル作業班は全長160キロに及ぶ自軍の前線で、約750発の地雷を爆発させた。対するドイツ軍も、700発近い地雷で応戦。重要な監視拠点となる高台や尾根は、どこも穴だらけになった。最大級の地雷が爆発してできた跡が、今も巨大なクレーターとして残っている。
イモ畑の下に広がる「地下都市」
地下戦争の舞台は窮屈なトンネルだけではない。ピカルディ地方の地下には、何百年も前に使われなくなった採石場が点在し、大きなものには数千人単位の大部隊も収容できた。
私たちは、エーヌ川の渓谷を見下ろす崖沿いに残る採石場を訪ねた。案内してくれたのは、代々この土地を守ってきた地主だ(遺跡の破壊行為を避けるため、詳しい位置は伏せておく)。
地主の男性は、採石場の入り口を守る立派な彫像を誇らしげに見せてくれた。フランスを象徴する自由の女神、マリアンヌの像だ。その奥に広がる人工の洞窟の暗がりに目を凝らすと、精緻に彫られた軍の記章や碑文が並んでいる。ここに待避していたフランスの連隊のものだ。坑内には、見事な彫刻や彩色を施した礼拝堂が複数あり、フランスが勝利を収めた主要な戦いなども刻まれていた。地下礼拝堂から地上の前線へと続く階段にも案内された。「この階段を上り、二度と戻らなかった男たちのことを思うと胸が痛みます」と地主は語った。
こうした"作品"の存在は、第1次世界大戦の研究者や愛好家、地元の村長や地主以外にはあまり知られていない。写真家のジェフリー・ガスキーは長年、地元関係者と交流を深め、地下に残された作品を撮影してきた。
ガスキーの写真は、前線の地下世界へと私たちをいざなう。地下に残された数々の作品からは、塹壕での戦いに散った無名の兵士たちの息遣いが伝わってくるようだ。
(文 エヴァン・ハディンガム、写真 ジェフリー・ガスキー)
(日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2014年8月号の記事を基に再構成]
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