梅雨が変えた戦国の歴史 「信長戦記」に新たな視点

戦闘の展開には新たな見方も

今川義元最期の地とされる場所に立つ信長(左)、義元像(名古屋市、桶狭間古戦場保存会提供)

信長は次男、三男らを中心にした約2千の親衛隊を率い、遠征途上で疲労もあった約5千の今川軍に集中攻撃したとみられている。迂回奇襲説は明治初期に陸軍が編さんした「日本戦史」に記述されている。藤本氏は江戸初期に書かれた「甫庵(ほあん)信長記」をそのまま陸軍が採用、結果として迂回奇襲説が流布したと分析した。作者の小瀬甫庵は桶狭間の戦い以後に生まれ、牛一の信長記を参考したとされる。

それでも少数の織田軍がなぜ今川義元を討ち取れたのか、信長記だけでは埋めきれないナゾの部分もありそうだ。今年1月出版の「信長と家康」(学研パブリッシング)で戦国史研究の谷口克広氏は「今川本隊は大部分は非戦闘員で専業の武士は1千もいなかったのではないか」と説く。「ヤリ持ちや馬のくつわ取りなど農民から徴収された兵士も多かっただろう」と谷口氏はいう。

金子助教も「主力決戦の場面では具体的な展開などまだ研究課題は多い」としている。重要な史料でありながら信長記は牛一の自筆本が2種類、さらに多くの写本が現存する。7月9日出版の「『信長記』と信長・秀吉の時代」(勉誠出版)の中で歴史研究者の桐野作人氏は天理大学所蔵のものや個人蔵など複数の信長記を比較し、これまで注目されなかった鷲津砦(とりで)近くで戦われた可能性を示した。桶狭間よりかなり西方にあたる。岐阜市信長資料集編集委員会委員の和田裕弘氏も各種の信長記本を比べて推敲(すいこう)の時期の違い、記述の矛盾などを指摘。信長記以外の著作も視野に入れた研究が必要と唱える。日本史上最も有名な戦いの一つである桶狭間の戦いだが、戦いの全貌が明らかになるのにはまだ時間がかかりそうだ。

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