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東京ふしぎ探検隊

2012/7/20

東京ふしぎ探検隊

ターミナル駅の混雑が直通運転を生んだ

京成電鉄の車両。中央は「赤電」と呼ばれ、都営浅草線への乗り入れを機に製作された。右は70年代の「青電」、左は80~90年代の「ファイアーオレンジ」(2009年、同社創立100周年を記念して過去の塗装を再現)

相互乗り入れが広がる首都圏の鉄道網。地下鉄だけを見ても、東京メトロ9路線、都営地下鉄4路線のうち、JRや私鉄との直通運転を行っていないのは銀座線、丸ノ内線、大江戸線のみ。なぜ、直通運転がここまで広がったのか? 国土交通省交通政策審議会の鉄道部会長などを歴任した政策研究大学院大学政策研究センター所長、森地茂特別教授に事情を聞いた。

「直通運転が広がった1960年代、東京のターミナル駅は混雑がひどく、危険な状態でした。直通運転になれば乗り換えが不要となり、駅の混乱が回避できる。駅員や車両の運用にも余裕ができる。郊外を走る私鉄にとっては、都心への乗り入れで大幅に利便性が増す。郊外に多くの人が暮らす現在の東京圏は、直通運転が生み出したといってもいいでしょう」

私鉄と地下鉄との直通運転第1号は、1960年(昭和35年)、都営浅草線と京成線だった。京成電鉄は浅草線に乗り入れるため、80キロ以上にわたってレール幅を広げる大工事を行った。そこまでしても、都心への乗り入れを実現したかったのだ。

京成線が浅草線とつながった2年後の1962年(昭和37年)に日比谷線との乗り入れを実現した東武鉄道は、社史「東武鉄道百年史」にこう記す。「都心乗り入れは、当社の夢であり、長年の悲願だった」――。この言葉の裏側には、官と民との激しいせめぎ合いがあった。

1950年代、私鉄各社は都心部への延伸を狙っていた。しかし、延伸計画を運輸省に申請しても、ことごとく却下されてしまう。東武の社史は「私鉄が山手線の内側に入るには大きな壁があった」と述懐する。当時はまだ、民間は郊外のみで、都心部は官が整備するとの考え方が根強かったようだ。

流れが変わったのは1955年(昭和30年)。運輸省がこの年に設置した都市交通審議会が、相互直通運転の考え方を打ち出したのだ。翌1956年(昭和31年)には第1次答申をまとめ、各社に直通運転を促した。背景にあったのは、私鉄各社の激しい通勤ラッシュとターミナル駅の混雑だ。以後、都心部の地下鉄路線は計画段階から直通運転を前提とするようになった。官が主導して地下鉄と私鉄との「縁組」を決めていった。

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大阪ではなぜ、直通運転が少ないのか?
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