2013/3/8

東京ふしぎ探検隊

桐ケ谷駅の痕跡、コンクリート壁に今も

東急池上線大崎広小路駅と戸越銀座駅の中間地点。かつて桐ケ谷駅がこの辺りにあった(東京都品川区)

泉岳寺線の中核駅となるはずだった桐ケ谷駅は、今もその痕跡をわずかに残している。

東急池上線・大崎広小路駅から歩いて5分。線路が第二京浜と交わる辺りに桐ケ谷駅はあった。よく見ると、そこだけ線路脇が広くなっている。コンクリートの法(のり)面には、かつて駅舎をつないでいた陸橋の跡が今なお残り、歴史をかろうじて伝えている。

ちなみに6号線は東急だけでなく東武も撤退したことで計画全体が宙に浮き、東京都はやむなく都営三田線として「高島平―三田」間のみ着工した。その後も三田駅から西への延伸がなかなか決まらず、東急目蒲線(現・目黒線)との直通は2000年までずれ込んだ。

新玉川線もレール幅を変更 半蔵門線と直通へ

一方、田園都市線と切り離された新玉川線計画は、その後も銀座線との直通方針のまま突き進む。1959年(昭和34年)には帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)と「列車の相互直通運転に関する覚書」を交わす。一部で工事も始めた。

写真中央に見えるコンクリートの法面が崩れている場所が、旧桐ケ谷駅の痕跡。かつてここに駅舎を支える陸橋があった(東京都品川区)

しかし、このころから社内外で銀座線との直通に対する疑問の声が上がり始める。銀座線の混雑が激しくなってきたからだ。

そこで東急は方針を急転換する。1966年(昭和41年)、新玉川線のレール幅を1067ミリに変更し、田園都市線との直通構想を復活させた。ルートも一部変更し、それまで掘り進めた部分を埋め戻した。

運輸省など各方面への陳情活動を強め、渋谷を通る地下鉄新線の建設を働きかけた。銀座線の混雑が社会問題化していたこともあり、運輸省も新線の敷設を推進。こうして実現したのが現在の半蔵門線だ。

池尻大橋駅は直前まで「大橋池尻」駅だった

1977年(昭和52年)4月、渋谷から二子玉川を結ぶ新玉川線がようやく開通した。この区間が田園都市線に名前を変えるのは2000年のことだ。

開業前後の新聞各紙の記事を調べていたら、駅名が違うことに気がついた。1976年9月22日付の朝日新聞の記事では、池尻大橋駅が「大橋池尻」となっている。間違いではないのか? 東急OBの西山克彦元専務に事情を尋ねたところ、川上正弘・東急ファシリティサービス社長から連絡があった。

「もともと大橋池尻駅で準備していたのですが、開業2カ月前の1977年2月23日に『新玉川線駅名変更について』という文書を提出したのです。そこで池尻大橋駅への変更を申請しました」

なぜ直前で変更したのか? 変更届に添付した理由書にはこう書いてあったという。

「大橋池尻駅は目黒区と世田谷区の境にあり、旧玉川線の大橋と池尻停留所の中間に位置する。両停留所名を渋谷から重ねて大橋池尻とした。これをいっそ呼びやすくするため、順序を逆にした」

「大橋池尻ではインパクトに欠ける」 変更の裏に五島昇社長の意向

川上社長によると、変更の裏には当時の五島昇社長の意向があった。「大橋池尻では何の変哲もなく、インパクトに欠ける。大きな橋をイメージする池尻大橋の方がいい」。そんな五島社長の強い要請で、直前にもかかわらず駅名が変更されたという。

ちなみに池尻大橋駅はまさに世田谷区と目黒区との境界線上にある。駅の所属はどちらなのか。東急に尋ねてみると、「世田谷区です」。確かに駅事務所も改札も世田谷区側にあるが、「事務所がある側に属していると決めているわけではありません」とのこと。それぞれの事情に応じて個別に判断しているのだとか。

大橋池尻駅の名称変更と同じ日付で、駒沢公園駅も現在の駒沢大学駅に変更した。駒沢大学や周辺住民からの要望に応えたという。実は駒沢大学駅は、設置場所を巡り住民と訴訟にまで発展している。直前に駅名が変わったり、駒沢公園口に向かう長い自由通路ができたりしたのも、そんな事情が反映されている。

様々な事情が複雑に絡み合う鉄道の直通運転。幻の計画が実現していたら、東京の沿線風景はどのように変わっていたのだろうか。(河尻定)

池尻大橋駅の周辺にある道路。右側が世田谷区、左側が目黒区となる。電柱に張ってある住所板の色が違う
東急は当初、この辺りに「駒沢公園駅」を設置する方針だったが、最終的には500メートルほど離れた場所に設置した

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