口出す父、今なら理解できる 荻原次晴さん
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はスポーツキャスターの荻原次晴さんだ。
――お父さんはアルペンスキーの選手だったとか。
「スキーはスピードだとよく話していました。僕と双子の兄の健司は3歳からスキーを始めたんですけど、おやじの影響があったのかもしれませんね。冬になるとスキーしか遊びがなくて、近くの牧場に家族で出かけて滑っていました。ただ、おやじからは将来五輪選手になれとか言われたことはありません」
――スキーの滑り方はお父さんに習ったのですか?
「おやじからスキーは教わっていません。3歳の最初の時はあったかもしれないけど。斜面の上に連れて行かれて『ついてこい』と先に滑っていくんです。振り返ることもなく猛スピードで。僕ら双子はその背中をひたすら追いかけていく。おやじは下で待っているんですね。『おせーな』とか言いながら」
「中学生になって全国大会に出るようになると、おやじも熱が入ってきました。練習を頻繁に見にきて、ああしろこうしろとうるさい。あるとき僕と健司が『ジャンプをやったことないのに偉そうなことを言わないで』と反発したんです」
「するとその週末、おやじが傷だらけで帰ってきた。『悔しいから俺もハンググライダーで空を飛んできた』というんです。それからは何も言えなくなりました」
――兄がアルベールビル五輪で金メダル。両親との関係は?
「実家を取り巻く環境が激変しました。どこに行っても健司と間違われたし、おやじまでもが、代わりにサインを書けとか、おまえがメダルをかけてみんなに対応すればいいとか言うんです。それくらい大騒ぎになった。居場所がなくて、東京の大学の寮にこもっていました。一家崩壊の危機でしたね」
「兄と間違えられるのが嫌で、健司と一緒に五輪に出るしかないと思いました。さぼっていたトレーニングに取り組んで、長野五輪に出ることができました。長野では、クロスカントリーの一番きつい坂道に両親がいて、大きな声を出してくれた。2人そろっての応援は記憶にないくらい。力になりました」
――長野五輪後、引退。お父さんは何と?
「びっくりしていました。おまえら双子は何をするのも一緒じゃないかと。でも決意が固いと知ると、それ以上は言いませんでした。おやじは今のテレビの仕事にもいろいろ言ってきます。今日のコメントはダメだとか、髪形に気を付けろとか。いつまでたっても、僕らを子どもと思っているんでしょうね」
「でも自分が家族を持つと、おやじの気持ちが分かるんです。同じことを子どもに言っている。家族が仲良かったことや経済的に支えてくれたことなど、おやじには本当に感謝しています」
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。