「○藤」さんが大分県に多いワケ 「藤原氏が起源」説
契機は鎌倉幕府の直轄領化 守護家臣の工藤氏ら根付く
大分県で多い名字の1、2位は佐藤と後藤。ほかにも「藤」が付く名字が上位に並ぶ。大分の名字分布の特徴は東日本と多くの共通点がみられるとされ、ほかの九州各県とは異なる。ユニークさの起源を調べてみると800年以上前の源頼朝と義経の衝突や、約400年にわたる大友氏の豊後統治が大きく影響していることが浮かび上がってくる。
九州・沖縄で多い名字の上位20位をみると、大分は佐藤・後藤・工藤・首藤・衛藤・伊藤と6つが「藤」付き。福岡は佐藤・伊藤、宮崎は佐藤・後藤の各2つ、長崎・熊本は佐藤だけで、佐賀、鹿児島、沖縄はゼロだ。
大分県内18市町村の首長では大分市の佐藤樹一郎市長や日出町の工藤義見町長ら5人に「藤」が付く。「○藤さんが多いので学校や職場では佐藤は『さっさん』、後藤は『ごっさん』、衛藤は『えっさん』と『藤』を省いて呼ぶことが一般的」(県企画振興部広報広聴課)というほどだ。
全国で一番多い名字である佐藤など「藤」が付く名字の起源の多くは平安時代に栄華を極めた藤原氏につながっているとされる。大別すると道長に代表される公家の藤原と、平将門の乱を平定した秀郷に代表される武家の藤原がある。この武家の系統は東日本に広がっており、それが大分に伝わってきたようだ。
研究によると、平安時代に藤原氏の系統に属する人々が各地に散らばり、地名などから1字を取って藤に付けて名乗った。大分には大分市、豊後高田市、宇佐市にそれぞれ佐野という地名が残っており、佐藤の起源となっているとみられる。
東日本の名字が大分に入ってきたきっかけの一つが源平合戦だ。大分の有力な地元武士団トップだった緒方三郎惟栄(これよし)はもともとは平氏に仕えていたが、平清盛の死後、源氏側を支援し武功を上げた。しかし源頼朝ではなく義経に味方したことから所領を没収され現在の群馬県沼田市に流罪となった。
その穴を埋めるように、豊後は鎌倉幕府初代将軍頼朝の関東御分国(直轄領)となり関東の御家人らが配置されていった。「直轄領化はいわば鎌倉武士の九州への橋頭堡(きょうとうほ)づくりだった」(別府大学の飯沼賢司文学部長)
ここで名前が出てくるのが豊後守護職になる大友能直(よしなお)だ。現在の神奈川県小田原市あたりが出身地である大友氏は支配体制の整った3代目の頼泰のころに大分に移住したとみられている。本格的な領地支配を進め、一族や御家人が多く大分に入ってきたのだろう。大友氏は大分で力を増していった。
『大分県郷土史料集成系図編』には工藤氏のルーツに大友氏の豊後入国に付き従ったとの表記がある。戦国時代に北九州全体に勢力を伸ばしたキリシタン大名の大友宗麟は晩年になって勢いを失い、息子の義統(よしむね)が所領を没収されて約400年に及ぶ大友支配は終わる。家臣は新たに仕官できた一部を除けば多くは土着化していったようだ。
こういった事情がユニークな名字分布をもたらした。「大分は先祖まつりなどが盛んで、自分たちのアイデンティティーに強いこだわりを持っており、名字にも影響した」(飯沼氏)とみられている。「先祖は関東あたりから来たと聞いて育ってきました」と横萬育英財団(大分市)の首藤哲男理事長は語る。
大分の方言は独特のイントネーションで九州らしくないといわれる。瀬戸内海に面して開けている地理的環境などから進取の気性が強い半面、個人主義的だという県民性がよく指摘される。名字の分布からも大分の独自の存在感を垣間見ることができる。
(大分支局長 藤井利幸)
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