古代山城の保存整備へ 動乱の7世紀東アジアを映す歴史新発見 愛媛県西条市・永納山城

2016/3/29
列石、土塁、岩盤が接続している(西条市教育委員会提供)
列石、土塁、岩盤が接続している(西条市教育委員会提供)

古代国家の存亡をかけ、7世紀後半に西日本で山城が相次いで築かれた。そのうちの一つ、愛媛県西条市の永納山城で、列石や土塁など城壁の保存や整備に向けた調査が行われている。永納山城では鍛冶炉跡がみつかるなど実態がよくわかっていない古代山城で貴重な発見がこれまでに報告されている。西条市教育委員会はさらに調査を進め、整備計画をまとめる予定だ。

愛媛県西条市と今治市にまたがる市境の丘陵に永納山城はある。標高は132メートル、主体となる永納山と北西側に連なる医王山が城域で2つのこぶのように突き出ている。

交通の要衝に築かれた

永納山城を特徴づけるのは何よりも地理的位置だ。潮の流れが速く船の難所で知られる来島海峡が一望でき、東に目をやれば燧(ひうち)灘に沿って新居浜市から四国中央市まで視界の内に入る。天気がよければ、南には石鎚山までがくっきり見える。

「遺跡西側には古代官道の南海道があったとみられ、陸と海の交通の要衝だった。伊予の国府があった今治にも近い」と西条市教育委員会歴史文化振興係の渡辺芳貴主査は説明する。

山城を形成する城壁の外郭線は馬てい形で、東西約780メートル、南北約970メートル。推定部分を含めると全周約2.5キロある。

城壁は古代山城特有の幅40~50センチぐらいの石を直線的に並べた列石と、列石の上に堅くたたき締めた2メートル程度の土塁を築いたものが中心だ。土塁は壁のように急な傾斜をもち斜度70度のものもある。

石材を4段から5段にわたって積んだ石積みによる城壁や、もともとの傾斜のきつい地形をいかした岩盤を利用し、城壁としていた部分もあった。列石の前面には3メートル間隔で柱穴があった場所もあった。柵が設けられていたとみられる。

急傾斜な地形でも列石が本来の位置を良好に保った状態が確認された

3月19日に開かれた現地説明会では、16メートルにわたり現存する列石や、人工的な城壁と自然地形を利用した城壁の境界部分などを確認。保存に向けた説明が行われた。

城壁が多大な労力と技術を使って築かれたことはかなり明らかになってきたが、永納山城がどのように利用され、どんな機能を持っていたのかについてはほとんどわかっていない。

戦国時代のように立派な城郭建築があるわけではない。というより、建物跡すらみつかっていないのだ。生活や活動の跡をうかがわせる遺物も少ない。中央政権と関係があるとみられる赤い顔料が塗られた土師(はじ)器や「畿内系」と呼ばれる土師器、須恵器など8世紀初頭から前半にかけての土器などごくわずかだ。

そうした中、貴重な手掛かりとして注目を集めたのは鍛冶炉遺構だ。炉の燃焼度を高めるための送風管の役割を果たすふいごの羽口や、鍛冶の際にできる鉄くずの鉄さいなども見つかった。鉄を鍛造する台となる金石床と燃料の木炭を保存する置き場も明らかになった。

白っぽい石が作業台となる金床石。左の浅くくぼんでいるのが鍛冶炉跡。上部の黒っぽい部分が炭置き場(西条市教委提供)

小規模ながら城内で鉄製品が作られていたことは明らかで、ふいごの羽口が複数出土していることから、鍛冶炉跡は1基しか見つかっていないが、複数あった可能性がある。炭置き場の炭を年代測定したところ、7世紀中ごろから後半と判明した。

この7世紀中ごろから後半という年代が意味するところは大きい。そもそも古代山城とは何か。どんな目的を持って建造されたのか。それを理解するには、相次ぐ戦乱と内紛で激しく揺れ動いた7世紀の東アジアの歴史を理解しておく必要がある。

激動のアジア情勢が突き動かす

中国では南北朝を統一した隋を唐が618年に滅ぼした。百済、高句麗、新羅による三国時代と呼ばれる朝鮮半島では、半島の覇権を巡り互いに争い、唐の軍事的圧力も絡んで断続的に戦争が行われ、極めて不安定な状態だった。

6世紀に勢力を伸ばした新羅と百済が対立を強める中、百済は642年に新羅を攻撃。倭国(当時の日本)に百済王子らを人質として送り関係強化したほか、それまで敵対関係にあった高句麗と642年に同盟を締結、数度にわたって新羅を攻撃した。

危機感を強めた新羅は唐に救援を要請。唐が大軍で百済を襲い、新羅との連合軍は660年に百済を滅ぼした。もっとも、百済の残存勢力が局地的な抵抗を継続。百済側の求めに応え、同盟国であった倭国は百済復興のため遠征軍を派遣。663年の白村江の会戦で大敗を喫するまで戦闘が続いた。

熟田津(にきたつ)に船乗せむと月待てば潮もかなひぬ今は漕(こ)ぎいでな

額田王が斉明天皇に成り代わって詠んだ万葉集でもとりわけ名高い和歌であるが、この間の様子を雄弁に物語る。百済復興の要請を受け、斉明天皇は救援を決意。新羅征討のため高齢ながら九州へ向け船出する。

息子である中大兄皇子(後の天智天皇)や大海人皇子(後の天武天皇)らとともに、難波の港から海路筑紫に向かい、661年1月に伊予の熟田津に寄港。3月に博多、5月に筑紫の朝倉橘広庭宮に都を移したが、7月に亡くなったと記録は伝える。

熟田津はどこか、については松山市内だけでも道後温泉付近など複数の候補地があげられている。今治市や西条市などとする説もあり、確定的なことは分かっていない。

半島情勢はこの後さらに切迫する。孤立した高句麗は数度の唐の攻撃をしのいだが、内紛もあり668年に滅ぼされる。7世紀初頭から百済、高句麗と共同歩調をとってきた倭国に重大な危機が訪れようとしていた。

重大な危機が目前に

京都大の吉川真司教授(日本古代史)は著書『飛鳥の都』で「669年、唐は倭を征討するため、軍船の修理を始めた。大水軍の襲来は現実の脅威として迫りつつあった」と当時の状況を解説する。

このように緊迫した情勢の下、侵攻に備えるために国家的事業として矢継ぎ早に造られたのが古代山城というわけだ。

石積みによる城壁も一部残っている(西条市教委提供)

古代山城は大きく分けて2種類に分類されている。『日本書紀』や『続日本紀』などの文献に記載された「朝鮮式山城」と、史書には表れない「神籠石(こうごいし)式山城」で、九州と瀬戸内沿岸を中心に計約30カ所あるとされる。

朝鮮式は亡命百済貴族から築城の指導を受けたことや外観が朝鮮の山城と類似していることから呼ばれている。日本書紀によると、665年長門城(山口県)、大野城(福岡県)、基肄(きい)城(佐賀県)、近江に都を移した67年には高安城(奈良県)、屋島城(香川県)、金田城(長崎県)などが建設された。

神籠石は、もともと自然の巨石で区画された聖域という意味があったというが、現在は便宜的に史書に記載がない古代山城を神籠石式と呼び、永納山城もこちらに分類されている。

永納山城について愛媛大東アジア古代鉄文化研究センター長の村上恭通教授は「来島海峡は地理的にみて極めて重要な防御線」と指摘する。「伊予の国府があった現在の今治市には7世紀後半から8世紀にかけ、砂鉄から鉄をつくる製鉄炉跡や、多数の鍛冶炉跡が見つかった高橋佐夜ノ谷遺跡がある。ここから永納山城ほか近隣に鉄を供給していた可能性がある」といい、国家的な事業が展開されていたのではないかと推測する。

古代山城については、防御施設のほか地域を支配する拠点として建造されたなどとする見解もある。いずれにしても永納山城は歴史的に大きな役割を背負って築かれたわけだが、現在では地元でも城跡について知る人は少ない。

古代山城は大半が国の史跡指定を受けている史的価値の高い遺跡であるにもかかわらず、同様の悩みをもつ自治体は多い。約30の関係自治体が集まり今年9月30日と10月1日に「古代山城サミット」が西条市で開催される。貴重な歴史的財産の適切な保存、整備、活用する方策について議論を深め、市民に開かれた遺跡を目指す考えだ。

(本田寛成)

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