東北の古代史を一変 防御固めた集落跡から銅鏡4枚歴史新発見 宮城県栗原市・入の沢遺跡

2016/2/29
宮城県教育委員会提供
宮城県教育委員会提供

東北地方の古代史でこれまで想像もされていなかった発見が宮城県栗原市の入の沢遺跡であった。深い溝を巡らせた4世紀の大集落跡で、一般的には有力者を弔う古墳に副葬される銅鏡が4枚も見つかった。竪穴住居跡から出た最北の事例で、貴重な鉄製品や玉類も出土。しかも、焼失した住居跡には真っ先に持ち出すべき貴重品がなぜか取り残されたまま――と、ミステリー小説顔負けの状態だった。この遺跡がバイパス道路の建設予定地という。

遺跡は標高36~49メートルの小高い丘陵上に、住居跡49軒と塀跡や大溝などが営まれていたことが宮城県教育委員会によって2014年12月まで行われた調査で分かった。古墳時代前期の住居が多く、この時期では国内で最北に位置する大規模集落だ。

外敵からの防御を意識

現場は周囲を見渡せる眺望に優れるとともに、急勾配の斜面となっている一方を一迫川が流れている。入の沢遺跡の特徴の一つが外敵に対する高い防御性だ。

自然の傾斜などを利用した北東―南西約125メートル、北西―南東約70メートルの集落域を、柵のような塀跡と大溝跡が並行して取り囲んでいる。塀は溝状に掘った穴に材木を10~30センチの間隔でびっしりと立ち並べたとみられる。

大溝は住居域を取り巻き、総延長は約380メートルと推定されている。このうち約50メートル分が調査されたが、規模は幅が2~4メートル、深さは0.7~1.5メートルで、住居跡がある丘陵頂部と溝の底面との高低差は最大約4メートルもある。溝の外側に掘った土を盛り土として利用していた。

集落跡の外側に掘られた大溝の底と、住居跡の高い部分との高低差は約4メートル(宮城県教育委員会提供)

密集度が高い49軒の住居跡のうちこれまでに調査されたのは計17軒。うち12軒が古墳時代前期(4世紀)に作られたとみられ、5軒は奈良平安時代。驚くべきことに、古墳時代前期の3軒の住居跡から計4枚の銅鏡が出土した。

弥生時代から古墳時代の日本で、銅鏡は最も貴重な器物として扱われていたとされている。古墳に鏡が1枚でも副葬品としてあれば被葬者がそれなりの立場であった有力者であることが想定できる。

入の沢遺跡で見つかった鏡4枚はすべて小型の国内製。珠文鏡2枚、内行花文鏡(破鏡)と重圏文鏡が1枚ずつ。古墳時代前期としては最北の発見になる。

そもそも、「鏡は古墳から出るモノだと思っていたから、住居跡から4枚も出てきてびっくりした」と調査した宮城県文化財保護課の佐久間光平総括担当は予想もしていなかったことを率直に話す。

焼失した大型の住居跡から発見された銅鏡2枚のうちの1枚(宮城県教育委員会提供)

銅鏡に詳しい大手前大の森下章司教授(考古学)は昨年9月に開かれたシンポジウムで「宮城県内2位の規模の前方後円墳である遠見塚古墳に鏡は副葬されていなかった。大崎平野の大型円墳、大塚森古墳でも出土していない」と指摘。当時の東北地方で銅鏡がいかに希少であったかを説明する。

鏡だけではない。当時の貴重品である鉄製品が30点出土。斧(おの)、剣、刀子などで、鉄斧のうち1点は布にくるまれ、壺(つぼ)の中に入れられていた状態だった。装身具は264点見つかった。勾玉(まがたま)や管玉、ガラス玉など多様な大きさの材質でできた玉類も出てきた。

大溝や住居跡の数などの遺構と、質と量がともに高い鏡や玉などの遺物のどちらをみても、入の沢遺跡が地域の有力な集団によって営まれた拠点的な集落であったことは間違いないようだ。

生活に密接に関連する土器も種類豊富に出土した(宮城県教育委員会提供)

生活用具である土師(はじ)器も壺、甕(かめ)、高坏(つき)、器台、鉢など多種の土器が数多く出土しており、当時の集落の生活のあり方を検討するうえで極めて重要な発見であることはいうまでもない。

焼失した住居跡から銅鏡

「もう1点注目すべきことがある」と話すのは同課の高橋栄一班長。焼失住居が少なくとも5戸あったのだ。このうちの1戸は集落の中央部分に位置。銅鏡2枚に玉類などほぼ全部の装身具、鉄製品などを出土した周囲と比べて一回り大型の住居だ。鏡の残り2枚も焼失住居跡からそれぞれ1枚ずつ見つかった。

当時の竪穴住居は木材を組んだ屋根にかやをふき、その上に土をかぶせた土屋根にしていたようだ。火事が起きた場合、家の中が焼けると屋根が落ちて土でふたをかぶせた状態になる。この場合、延焼する可能性は低い。

そうであれば、これだけの貴重な物品を持ち出さず、あるいは取りに戻ることもなく残していったのはなぜなのか。言い換えると、火事はなぜ、どのようにして起きたのかが大きな問題になる。

火災の規模や焼失住居跡の位置関係からみて、単なる失火の可能性は極めて低い。他から襲撃を受けたのか、内部抗争の結果の火災だったのか――。

東北地方の古墳文化に詳しい東北学院大の辻秀人教授(考古学)は襲撃を受けたとみる。

「焼け跡は生活痕をそのままとどめている。いわば居抜きの状態で、とるものもとりあえず逃げ出したよう」と辻教授。「あつれきを承知で、防御を固めた大規模集落が突然丘の上に現れ、火災に遭い、貴重品を持つ余裕もなく撤退し、戻らなかった」と推測する。それ以外だと現場の状況をうまく説明できないからだ。

丘陵の斜面すぐ近くまで集落は営まれた

当時の実態として、弥生時代終末ごろ東北地方南部に、関東地方沿岸地域や北陸東北部から集団的な移住があった。水稲耕作を基盤にヤマト王権と関係がある首長が地域を束ねる古墳文化の社会に移行。東北地方北部は冷涼な気候の下、狩猟や採集を基盤とする北方の続縄文文化を受容。この両文化が接する地域が現在の宮城県北部だった。

宮城県北部は境界領域

宮城県大崎市などには続縄文文化の遺跡が数多くあるとともに、古墳文化の遺跡があり、土器などの遺物をみると両者に交流があったことがうかがえる。

一方で、大崎市に隣接する宮城県美里町の山前遺跡も古墳時代前期の遺跡で大規模な溝が巡らされている。従来、溝の意味を巡って議論があった。「入の沢遺跡とあわせて考えれば防御用の大溝と理解することが可能」と辻教授。「ヤマト王権の北への志向性がうかがえるのではないか」との説だ。

いずれにしても調査が行われたのは遺跡の半分にも満たない。さらなる発見の期待は高まるが、入の沢遺跡はバイパス道路建設に伴う発掘調査で発見された経緯がある。

一連の発掘を受け日本考古学協会は昨年7月、「防御を強く意識した集落が造られた背景には、当地域が『倭(やまと)』と異なる北方の続縄文文化との境界地域であったことが関係したと考えられる」などとして国、県、市などに対し遺跡の保存と活用に関する要望書を提出。栗原市の佐藤勇市長は昨年11月、バイパス道路のルート変更を国と県に求め、遺跡を保存する考えを示した。

「考古学は地域に勇気を与える」。生前に森浩一同志社大名誉教授(考古学)が繰り返し語ったことはよく知られている。東日本大震災での最大震度は宮城県栗原市で記録した震度7だ。復興を進める中、混雑緩和のためのバイパス道路建設は地元の悲願だったという。

入の沢遺跡の北側に隣接して国の史跡、伊治城跡がある。伊治城は8世紀後半、律令国家と蝦夷(えみし)との間で激しい戦争が何度も繰り広げられた際、律令国家側の最も北に置かれた軍事的拠点だった。

古代の境界を巡る厳しい歴史が刻まれた地域での遺跡の保存と、道路の建設を両立させるべく関係者の努力が続けられている。

(本田寛成)

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