母への献辞に号泣した父 慶応義塾塾長、清家篤さん
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は慶応義塾塾長の清家篤さんだ。
――父親の建築家、清家清さんは名作「私の家」などで、戦後の住宅設計に大きな影響を与えましたね。
「画家は自分の絵の具とキャンバスで自由に絵を描けるが、建築家は依頼主のお金で建物を作るのだから好き勝手はできない、と父は言っていました。だから自分のお金で家を建てるなら、やりたいことをやっていいことになるわけです」
「そんな父が1954年に建てたのが、50平方メートルのワンルーム的実験住宅『私の家』でした。床は全面鉄平石張り。『家族に秘密はないはず』と、トイレに扉もありません。私は姉や妹とこの家で育ちました」
「小さいころは、家とはそういうものと思っていましたが、友達の家に行って『ずいぶん違う』と感じ始めました。父は東京工業大学の教授でしたが、家で想を練ったり設計したりする人なので、静かにしていなければなりません。編集者なども夜遅くまで居続けます。彼らが座っているソファは、夜には展開して私のベッドになるのです。これでは寝られません」
――反発したのですか。
「明治生まれの堅物でエンジニアだった祖父と、美術を志しながら建築に進んだ父の間には進路を巡る葛藤もずいぶんあったようです。でも、私と父の間にはありませんでした。普通の家庭と同じで、中学くらいから父とはあまり話をしなかったですが……。大学は経済学部に行くと言ったとき、心配はしたようですが反対はしませんでした。モノを作る建築の世界と比べ、何となくふわふわしていると感じてはいたようです」
「父は根っからの自由人で、左右のイデオロギーに拒否反応を示す人でした。この点は私も似ていて父の影響かなと思います。学生のころから、誰かに主義主張を熱く語られるといったことは、どうにも苦手でした。自分の美意識にこだわり、建築で自己表現しようとしたのが父です。一方、私は経済モデルで人間の行動を解析できると考える無粋な人間。そんなところは違います」
――最期まで同じ敷地で暮らしたんですね。
「『私の家』の傍らに父の設計で『倅(せがれ)の家』を建てて住みました。母が亡くなった後は私の妻が父の世話をしましたが、妻は父を、おしゃれですてきな人だったと評しています。比較対象はもちろん私です。父は『篤はいいお嫁さんをもらったね』と喜んでいました」
「そんな父が感情を吐露し、号泣する姿を見たことがあります。一度は祖母の出棺の時、もう一度は私の著書の巻末に、執筆途中で亡くなった母への献辞があることに気付いた時でした。建築は単なるハウスではなく、家族のためのホームであると考えていた父の心を感じました」
[日本経済新聞夕刊2016年2月23日付]
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
※ NIKKEI STYLE は2023年にリニューアルしました。これまでに公開したコンテンツのほとんどは日経電子版などで引き続きご覧いただけます。