体が自然と表現を始める ダンサー・田中泯さんに聞く

撮影、小林裕幸
撮影、小林裕幸
今も昔もダンサー。映画の中でも踊っている

昨年の年の瀬、東京・中野に小劇場を訪ねた。照明が消えると、コンクリートむき出しの地下スペースは闇に包まれた。目をこらすと横たわる人の姿がぼんやりと浮かぶ。わずかな光を受け、肉体がゆるりと動き始めた。空をつかもうと手が伸び、足がもがく。約1時間。無言の表現に観客は息を殺した。

1人で舞台に立ったのは田中泯さん(70)。顔は真っ黒な布で幾重にも巻かれていた。

「最近はテレビや映画に出る『田中泯』を見に来る人が多くて、あえて表情を隠しました。おかげで前は見えないし、窒息しそうでしたが。この舞台で本当に見てほしいのは匿名の体です。人によってはテロリストのように見えたかもしれません。自分の父親を思い浮かべたという人もいました。私の踊りは自己主張でも、メッセージでもありません。観客一人ひとりが自由にイメージを抱いてくれればいい。その視線を受け止め、私の体が表現を始める。もはや『田中泯』ではなく、名づけようのないひとつの肉体です」

俳優と呼ばれるずっと前からダンサーである。1960年代から独自のソロダンスを始め海外で高い評価を受けた。公演は国内外で3000回を超える。

「最初はモダンダンスやバレエだったのですが、身体表現の考えが納得できなくなった。体とは自由とは何だろうと突き詰めていったら、最後は裸になった。髪も眉も体毛はすべて剃(そ)り上げ、男性器に包帯を巻いただけの格好です。劇場を飛び出し土の上に寝転んで踊りました。わいせつだと警察に追いかけられたこともあります。社会主義時代の東欧にもよく呼ばれました。プラハのカレル橋の上で裸で踊ったときは捕まるんじゃないかとひやひやしました」

「いろんな場所に行って、その土地に宿る霊感や記憶を感じながら踊る『場踊り』を続けています。踊れるならばどこにでも。この前も南太平洋のバヌアツにある火山の噴火口で踊ってきたばかり。地球のエネルギーに圧倒されそうでした」

57歳にして映画に初出演し、新人賞を獲得。昨年はNHKの連続ドラマで祭り好きの塩田職人を演じ、存在感を見せた。

「山田洋次監督に『声がいい』と口説かれ、2002年に『たそがれ清兵衛』に出たのが最初です。幸い評判がよく、別の映画やテレビ出演の話をもらうようになりました」

「踊りと違いセリフがあります。でも、あまり苦労しませんでした。自分の体の中に小さな動きを作りながら言葉を覚えるのです。そうすると計算しなくても表情は自然に変化する。よく考えれば踊りと一緒です。私は今も昔もダンサー。だから映像の中でも踊っています」

土にまみれ、生命と言葉を考える

東京・八王子で過ごした少年時代に踊りの原点がある。

「地元の婦人会活動が活発で、夏になるとあちこちで盆踊り大会が開かれました。当時は虚弱体質でいじめられっ子だったので、東京音頭や炭坑節の輪に逃げ込んで自己流で踊っていた。大人たちが興奮し、普段とは別人になるのが楽しかった。このまま踊りが毎日続けばいいのにと思っていた。話すのが苦手な、盆踊り小僧(こぞう)でしたね」

85年、舞踊の仲間を率い東京から山梨県白州町(現北杜市)に移住。今は甲斐市の山中に住み、土にまみれる。

「農民になる覚悟で移り住みました。切り立った山が迫る限界集落で人が住まなくなった民家を改修し、休耕田を借りて無農薬で野菜をつくっています。日が昇る前に起きて畑に出る。普段はそんな生活です」

「畑があり植物が育ち、そこに昆虫がやってくる。植物も虫も、食べたり食べられたりしながら必死に生き、生殖をする。近よって観察しないとわからない世界があります。あらゆる命とつながっている感覚は踊っているときと近いですね」

「そもそも、世界中の踊りというのは、農村から始まっている。傾斜地で足を踏ん張り、農作業で腰をかがめる。小さな動きから踊りや芸能が生まれていったのでしょう。農作業をしていると、いろんな動きが含まれていることがよく分かります。私には農業も踊りの一つです」

「晴“踊”雨読」とでも言うべきか。限界集落から眺める世の中はどう映るのだろう。

たなか・みん 1945年、東京生まれ。クラシックバレエとモダンダンスを学び、66年からソロダンスを開始。舞踏家の土方巽に師事。70年代から独自の身体表現を追求する。85年山梨県の農村に移住。2002年山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」で日本アカデミー賞・新人俳優賞などを受ける(撮影、小林裕幸)

「人はいつごろから、なぜ踊るようになったのか、考えることがあります。人が言葉を話すようになるずっと前から踊りのようなものがあったに違いない。言葉を覚えた後も、言葉にならないものは体で表してきた。ところが今の世の中、言葉が過剰になりすぎて、しかも信用できなくなってきた。原因は肉体不在のコミュニケーションにあるんじゃないかと思います。こうやって向かい合っていれば、相手が戸惑っているなとか、口ごもったなとか分かりますよね。ところが最近のメールなんかを見ていると、言葉が体と切り離されてしまっている」

「さすがに今は山の中に住んでいるから、私も携帯電話は持ってますよ。でも、必要最小限。メールが来ても『了解』と返すだけです。重要な用件は手紙を出し、それから相手と直接話し合うのが私の流儀です」

山梨山中の限界集落に住む 「踊りのミュージアムが夢」

JR甲府駅からひたすら北へ北へと登る。谷あいの林道が途切れ、山の稜線(りょうせん)が空に接するあたり。田中さんが暮らす集落にようやくたどりついた。標高は1000メートル。突然の来訪者を歓迎するように羊のハルが近づいてきた。振り返ると甲府盆地の向こうに富士山が見えた。

来訪者を出迎えるヒツジのハル

最盛期は150人が暮らしていた集落も、今では自分を含め4人だけという。空き家を引き受けて改修し、荒れ放題だった傾斜地の畑ではジャガイモ、大根、白菜に大豆など「育つ野菜は何でも植え、家畜も飼っている」。この集落を詩人・吉田一穂の随筆にならって「桃花村(とうかそん)」と呼び、東京で公演がある日でも、「終わればすぐに戻ってくる」。

山梨県内に居を構えて30年以上になる。県内の民俗芸能を訪ね歩き、映像や写真に記録してきた。手元には自ら参加した海外の芸術祭の資料もそろっている。それを整理し、「寝泊まりしながら勉強ができる踊りのオープンミュージアムをつくるのが夢」と話す。

(田辺省二)

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