8000年前の編みかごの奇跡 日本最古の湿地性貝塚で歴史新発見 佐賀市・東名遺跡

2015/12/28
貯蔵穴とみずみずしい編みかご(佐賀市教育委員会提供)
貯蔵穴とみずみずしい編みかご(佐賀市教育委員会提供)
縄文時代早期、約8000年前の国内最古の湿地性貝塚である佐賀市の東名(ひがしみょう)遺跡が注目を集めている。精巧な技術を駆使した740点もの編みかごなど当時の生活水準の高さを示す最古級遺物が次々に見つかった。縄文時代の貝塚や遺跡というと東日本を連想しがちだが、東名で集落と貝塚、貯蔵施設がセットで出土したことで、より詳細に生活実態が判明、縄文時代早期のイメージを一新する契機となった。

奇跡的な発見

大きな発見には偶然や奇跡的な要素が往々にして介在する。東名遺跡もその例に漏れず、洪水対策として巨勢川調整池(55ヘクタール)を建設するため掘削工事を開始した2003年、平たんな水田の地表から約5~7メートル掘り進んだところで偶然貝塚の上部が見つかった。

掘削工事に先立ち1993年から96年にかけ、地表から1~2メートルで確認調査を実施したところ、大量の縄文時代の遺構や土器、石器を発見したが、まさか5メートル以上も掘り進んだ深い地点に貝塚があるとは想像もされていなかった。貝塚は台地のような高台で見つかるケースが一般的だからである。

調査で南北に約500メートルにわたって点在する国内最大級の貝塚群であることが判明。見つかった木の実や木製品の年代測定で約7970年前~約7460年前まで続いた縄文時代早期の遺跡であることが分かった。環境の急変で水没するまでの500~600年間の存続期間だったとみられている。

貯蔵穴とみずみずしい編みかご(佐賀市教育委員会提供)

「植物質の遺物が生々しく、とても不思議な感じがした」。93年の調査開始から担当している佐賀市教育委員会文化財係の西田巌さんは振り返る。

東名遺跡の大きな特徴は3つある。まず、縄文海進と呼ばれる地球的な温暖化による海面の上昇で水没し、一気に海洋性粘土層に覆われ全体をパック。粘土層は約5メートルにもなった。その後の寒冷化による海退期以降も水につかった部分が多く、湿地性遺跡となった。大規模な貝塚だったため、貝殻のカルシウム分が溶け出し土壌を中和、一般的な酸性の土壌では分解されてしまう有機物がよく残った。

この3条件を備えたことで、これまで発見例が少なく縄文時代早期の人々の日常の生活状況を理解するのに重要な木製品や骨格製品、貝製品が大量に出土。どの遺物も国内最古級という貴重な発見につながった。発見の契機も奇跡的なら、見つかった遺物も奇跡的に良好な状態で出土したというわけだ。

中でも、約740点が見つかった編みかごは圧倒的だ。量的にみると全国で見つかった縄文時代の編みかごの7割から8割を占め、質的には弥生時代から始まったと思われていた透かし部分が六角形になる「六つ目編み」がその5000年以上も前から使用されていたことを確認。タテ材とヨコ材を1本ずつ交互に重ねていく「ござ目編み」や、2本ずつ交互に重ねていき1本ずつずれていく「網代編み」など縄文時代の主要な10通りの編み方すべてが早期段階で使用されていたことが分かった。

編みかごはほとんどが袋状になっているか、その破片。高さ約70センチ以上の大型と、約50センチの小型に大別できる。

貯蔵穴での作業現場の様子(佐賀市教育委員会提供)

大型にはドングリを入れ、水がわく低い場所に直径1~1.5メートルの穴を掘り、短期間水漬けするのに使用したようだ。水漬けにすることでドングリに虫が湧くのを防ぎ、冬場の食糧として貯蔵したとみられる。小型は運搬具として使用したとみられる。

「貯蔵穴は当時のまま残されていた可能性が大きい。まさに8000年前の人が歩いてきて、この貯蔵穴をこの状態で利用したんだということがリアルに感じられた」と西田さん。

その後の調査で、かごの部位によって編み方を変えることで壺(つぼ)形の袋状にしたり、複数の素材を使用することで機能性を高め、色合いにもバラエティーを出していることが分かった。装飾性も含め驚くほど技術上の工夫が見られた。

骨格製品の多様なアクセサリーにも目を奪われる。ブレスレットやペンダント、ネックレスなど様々で、鹿角でできた装身具では径1ミリほどの穴を精巧に刻んで鮮やかな幾何学文様を描いている。造形的に優れており、縄文時代早期の技術の高さと豊かな精神性を端的に示している。

縄文早期は西日本が先行か

九州など西日本の有名な遺跡は弥生時代以降がほとんどで、縄文は東日本が中心と一般的に受け取られてきた。データでも、東名遺跡を巡るシンポジウムで講演した文化庁の水ノ江和同文化財調査官によると、全国の縄文時代の約9万3000遺跡のうち石川―岐阜―愛知以東の東日本に84%が集中。2410ある貝塚も約8割が東日本という。

現況の一部。土盛りをしている第3~第5貝塚は水上に姿を見せている。

これは7300年前に起きた巨大噴火の影響が大きいと考えられてきた。鹿児島県沖約50キロにある海底火山の鬼界カルデラが大規模な噴火を起こし大量の火砕流を噴出。鹿児島県や宮崎県南部を覆い、火山灰はアカホヤ火山灰と呼ばれ、朝鮮半島や東北地方南部にまで飛んだ。このため九州の縄文文化は壊滅的な打撃を受けたとされてきた。

だが、約9500年前の上野原遺跡(鹿児島県霧島市)は別格としても、東名遺跡が発見されたことで、宮坂貝塚(同)や宮崎市の跡江貝塚や柏田貝塚など同時代の貝塚が改めて見直され、縄文早期は西日本が先行していたことを補足する資料となった。各地の地中には貝塚が眠っていることもわかり、歴史的な意義は大きい。

とはいえ、佐賀県の遺跡といえば、縄文時代晩期末の約2600年前、国内最古の水稲耕作跡と炭化した米が出土した菜畑遺跡(唐津市)が教科書などで知られているが、何と言っても、大規模な環濠(かんごう)集落跡などで弥生時代を代表する吉野ケ里遺跡が抜群に有名だ。神埼市と吉野ヶ里町にまたがる台地上の広さ50ヘクタールは国の特別史跡に指定されている。

東名遺跡の知名度を佐賀市民の間で高めようと、西田さんらは奔走。佐賀市内の小学校に出向いて遺跡について授業を行ったり、研究者らを招いてシンポジウムを開催するなど親しまれる遺跡として浸透するよう努めている。

懸案だった国の史跡指定については、来年1月に文部科学省に申請書を提出。6月ごろ答申を受け、8月か9月には正式に指定される見通しという。

(本田寛成)

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