第7回日経小説大賞受賞作「公方様のお通り抜け」冒頭
第7回日経小説大賞受賞作、西山ガラシャ著「公方様のお通り抜け」の第一章冒頭を公開します。来年2月に日本経済新聞出版社から単行本が発売されます。ご期待下さい。
第一章
1
日本橋から二里ほど西方に、戸塚村がある。
村に住む外村甚平(そとむらじんべい)は大百姓だが、心は商人(あきんど)だ。日々、金儲けの方法ばかり考えている。算盤に触らぬ日は、一日とて、ない。
寛政四年(一七九二年)の夏。
田畑を夕日が照らす頃、村の百姓たちが、続々と甚平の家に集まり始めた。
村でいちばん大きな家である外村家の座敷は、人で溢れかえった。
甚平が雇い上げて、戸山荘に送り込んでいる百姓衆だ。
戸山荘とは、尾張徳川家の下屋敷で、十三万坪の広さがあり、敷地のほとんどが、森と草原と池から成り立っている。
屋敷の庭園手入れが、甚平の雇い人たちの仕事であるが、重労働に対する不満が、爆発しかけていた。
集まった面々は、老若問わず、疲労が見える。雇い主の甚平に対して、文句を言わずにはおられぬ顔が並んでいた。
座敷を陣取られ、殺気立った雰囲気に、甚平は圧倒されていた。
普段であれば湯浴みをして、汗を洗い流す時刻だが、今夜は、寛ぐどころではない。
まずは、話を聞かねばならぬ。なるべく冷静に聞こうと、心を落ち着かせる。
扇子を開いて、首元に風を送るが、少しも涼しく感じられなかった。
左手で浴衣の襟を掴んで体から浮かせ、胸元に無理やり風を送り込む。
「今日も、蒸し暑いのう」
挨拶のつもりで皆に掛けた言葉に、返答はない。
いきなり、本題に入りたそうだ。
甚平が腰を下ろすなり、喜三郎(きさぶろう)が口を開いた。
「甚平さん、話が違う」
顎を引き、甚平を睨みつけるような構えをした喜三郎は、日に焼けて、顔のところどころが、潮を吹いたように白くなっている。
「つい先日、賃金は必ず上がると、宣言をしておったではないの」
厳しく詰め寄られた。
甚平は扇子を激しく動かして、扇いだ。一呼吸おいて、扇子をぴたりと閉じてから、答えた。
「賃金は、必ず上げる。もう少し、待ってくれ」
喜三郎の視線が、さらに甚平を舐め回した。
「もう少しって、いつになったら、上がるんだ?」
「明日、戸山荘の屋敷奉行に会って、話をする。交渉が上手くいけば、明日にでも賃上げをする」
戸山屋敷奉行には、すでに二度ほど賃上げ交渉を試みて、二度とも却下された。
三度目の正直で、明日こそは受け入れてもらおうと、甚平は、話の持って行き方まで、考えてある。
だが、交渉相手も、意外としぶとい。強情な人間には、粘り強さを発揮せねばならぬ。相手が諦めるまで、とことん陳情をし続けるつもりだ。
「んで、明日、戸山のお奉行との話し合いが、上手く行かぬ場合は、どうなる?」
端から、上手くいくわけがないと疑っている様子が、ありありだ。
「そりゃぁ、現状を受け入れてもらうしか、致し方ねぇっつうもんだ」
甚平の答えが気に入らぬようで、場が、ますます気まずくなった。
内心では、明日の交渉は必ず成立すると、自信がある。
喜三郎の隣に座る貞五郎(さだごろう)という名の若者が、口を開いた。
「お奉行様との話し合いの如何に拘わらず、賃上げ分は、甚平さんの儲けの中から支払ってもらえば、事は済む。話は簡単だ」
若造のくせに、不愉快な意見を投げつけるもんだ。身銭を切れと?
甚平は、腹が立ってきた。
「百人以上の人間に、儂の儲けから賃上げ分を支払ったら、儲けるどころか、大赤字だ」
実際は、赤字などにはならないが、利益の減少は、甚平が最も我慢ならぬ事態である。
利益は常に増加の一途を辿らねばならず、でき得れば、鰻上りの増加が望ましい。
「甚平さんなら、痛くも痒くもねぇはずだ」
誰かの言葉に、笑い出すものすら、いる。
「そもそも最初は、庭いじり、庭掃除だと聞いておった。植木の世話や、草取りだと信じ込んでいた」
新六が口を開いた。
周りの人間たちが、皆、一斉に頷く。「そうだ、そうだ」と、新六に同意している。
「庭掃除の域を、超えておる」
不満の言葉に火がついて、燃え上がりつつある。
「完全に、超えておる!」
次々と飛び火する。
「戸山荘は、《庭》とは言わぬ。《山》だ。里山がいくつも連なって、儂らぁは、庭仕事に従事しておるんではなく、山仕事をしておるんじゃ」
「そのとおり、山仕事である!」
孫助は、立ち上がって、山の形のつもりか、両手を大きく斜めに動かしている。
「甚平さんは、我らの仕事の内容を、まったく理解しておらぬわい」
喜三郎が、顔を歪めて、呆れ果てた顔をした。
文句が渦巻いている。大火事にならぬ前に、火消しに入りたい甚平だが、言葉を発する隙もない。
甚平は、立ち上がって、両手を伸ばし、皆を鎮めた。
「待て、待て。皆の苦労は、よおく分かっておるさ」
「分かってなど、おるものか!」
「甚平さんは、何もわかっておらぬ!」
口元に人差し指を立て、静かにしてくれと、身振りで懇願した。
ようやく、少し静まったところで、甚平は再び腰を下ろした。
「皆のおかげで、当初は荒廃しておった戸山荘の庭も、綺麗になった。屋敷奉行も、たいそうお喜びだ」
甚平は、はだけた浴衣の襟元を、少し直した。
実際、戸山荘の広大な屋敷は、尾張徳川家によって、まったく管理しきれておらず、何十年も、人が立ち入った形跡が見あたらぬ小山さえもあった。
だが今は、木々も剪定され、雑草も除去され、小径が整えられて、見違えるような美しい庭園になりつつある。
そもそも、甚平が御用聞きとして出入りしていた場所は、市谷にある尾張様の上屋敷である。戸山荘の広さに比べれば、猫の額ほどに感じられる庭に掃除夫を送り込んで、手入れした。春夏秋冬、年に四回、一回につき十五日間、五十人ほどの人夫を投入した。
市谷上屋敷の庭掃除と同じような気持ちで、戸山下屋敷の庭の手入れを申し出た。
黙って仕事が転がり込んできた訳ではない。常に、儲ける手段はないかと、目を光らせている結果として得た仕事だ。
甚平自身、戸山屋敷の広さなど、当初は、まるで把握していなかった。戸塚村だけでは人夫が足りず、近隣の大久保村、柏木村、中野村、上高田村などからも、人を掻き集めた。
人集めには苦慮するが、仕事が大規模になればなるほど、甚平の懐に転がり込む額も大きい。
「まったく賃金が割に合わんね。先日の大風雨で、無残に折れた枝を、山から運び出す苦労。とんでもなく重労働さ」
少し場が静かになったのは一瞬で、再び不満の声が飛び交う。
「毎日、倒れる寸前まで山道を動き回って、一日三匁って、ありえねぇ」
さらに後ろから、声が飛んだ。
「一日三匁で働けるか」
「んなら、いくらならば、納得できるか?」
甚平は、皆の目を見渡しながら、尋ねた。
「三匁七分五厘!」
「四匁!」
「五匁だ!」
次々に声が飛ぶ。
「五匁だと? 三匁から、いきなり五匁の値上げなど、あり得ぬわ」
甚平は、腹の底から声を出し、笑い飛ばした。
「ならば、四匁」
「そうだ、四匁がわれらの条件のぎりぎり最低賃金だ。四匁以下ならば、われら、甚平さんの仕事など、今後一切、請け負わぬ!」
「金輪際、請け負わぬ」
座敷内で男たちが、団結していた。
やはり、値上げどきか。
甚平は、黙って静かに、皆の顔を眺めた。
見つめ返される鋭い視線が、痛いように感じる。
「分かった。善処しようと思う。四匁とまでは難しいかもしれぬが、三匁七分五厘は約束する」
甚平は、ゆっくり答えた。
皆の顔に、少し変化があった。安堵ともとれる表情が浮かんだ。硬く険しい顔つきが、次第に柔和に変化していく。
「皆、聞いたか。明日から、三匁七分五厘になったぞ」
誰が《明日から》と申したか。
だが、甚平は黙っていた。三匁七分五厘で納得して貰えるなら、よしとする。
仕事を請け負ってくれる百姓衆がおらねば、大名家の《御用聞き》としての、甚平の仕事は成り立たぬ。
「甚平さん、本当に、明日の仕事から、三匁七分五厘だな」
「嘘はつかぬ」
場が、急に和んだ。
「さ、甚平さんの気が変わらぬうちに、我らは、さっさと引き上げようぜ」
喜三郎が、笑顔さえ見せて、周りの者たちに声を掛けた。
「明日も、炎天下の、重労働だでな」
皆が、一斉に腰を上げた。帰る仕度をしている。
まるで、集団で仕組まれた演技を見せられた気分だ。賃上げのために、どこかで、芝居の練習でもしてきたのではないかと思うような団結ぶりだ。
「さっさと戻って、体を休ませねばのう」
両手を上げて、伸びをする姿も目に入る。
普段の、戸塚村の村人たちの表情に戻っている。
「では、今晩は、これにて」
「甚平さん、また明日」
雇い人たちは、座敷から、ぞろぞろと去っていった。甚平は、皆を見送った。
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