煙山八重 苦境にある母子を生涯支援
ヒロインは強し(木内昇)
大正十二年の関東大震災を機に、意識を変えた女性が多くいた。危急のとき動きやすい洋装を浸透させるべく努めた者。いざというとき一家を支えられるよう女性も教養を身につけるべきだと学問に励む者。災害によって浮かび上がった社会的欠如を埋めるべく、彼女らは個々に立ち上がったのである。
煙山八重もまた、そのひとりだった。大学教授の妻として、幼い娘たちの母として、不自由ない暮らしを送っていた人である。山の手に住んでいた彼女は震災の被害にも遭っていない。だが家や夫を失い、小さな子供を抱えて途方に暮れる若い母親たちを見て、手をこまねいているわけにはいかなかった。
八重は早速、出身校である盛岡女学校時代の友人らと母子を支援するための基金を設立する。方々に掛け合った結果、内務省からの補助金を得て、巣鴨上富士町の土地を借り上げた。さらにその地にバラックを建て、被災者に提供したのだ。このとき東京市も母子にミルクを配るなど素早い対応を見せているが、民間、しかもこの時代に女性三人で行った事業と思えば、その迅速さや的確さ、規模の大きさに驚かされる。
「愛の家」と銘打ったこの母子寮だが、震災の混乱が収まると、八重以外のふたりは銘々の生活に戻った。けれど世間には未だ不遇な結婚等により支援を必要とする母子がいる。ならば女性の人権尊重、男女平等を目指して、彼女らを手助けしようと八重は単身、活動を続けるのだ。
社会事業の基本を学ぶため、社会政策学院の夜学にも通った。つてを辿って、渋沢栄一や新渡戸稲造といった有力者に資金面での協力を願い出た。当然、家を空ける日も多くなる。幼い子供たちは母の不在を寂しがる。よその母子を救うため、自分の家庭を犠牲にするのは本末転倒と家族が不満を持つのは自明だろう。が、彼女の活動を後押ししたのは、他でもない夫の専太郎だったのだ。
東京帝国大学卒業後、早稲田大学で教鞭を執っていた専太郎は、妻が仕事を持つことに肯定的だった。女性特有の知恵や発想は社会のために役立てるべきだと考えていたという。八重の仕事は無償だが、それを不満ともせず、母の不在を嘆く子供らを諭した。社会に必要とされ、生き生きと働く妻を、誇らしく見ていたのではなかろうか。
八重は終生「愛の家」に関わり、保育部や授産部まで整えた組織を作り上げた。戦時下でも、託児所として施設を提供した。女性の自立支援のため、生涯を捧げたのだ。
阪神淡路大震災から、今日で二十年目を迎える。突然襲いかかる自然災害は理不尽以外のなにものでもない。だが先人たちは、それを機によりよい社会を作らんと尽力した。その努力を私たちも引き継ぎ、日々意識し続けるべきだろう。たった四年前に起こった東日本大震災の折、あれほど切実だった節電の意識を今、どれほどの人が持ち続けているのかと想像するだに、少し怖くなる昨今である。
[日本経済新聞朝刊女性面2015年1月17日付]
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