秋葉原から発信した「オタク文化」

個人の作家性や能力を重んじる海洋堂には、クリエーター以外にも優秀な人材が集まっている。同社は1990年代後半まで東京・渋谷に店を構えていたが、秋葉原のラジオ会館内に98年、東京店をオープン。電脳の街だった秋葉原が「オタク文化の街」へと変貌するうえで、海洋堂東京店はきっかけの一つになった。渋谷から秋葉原への移転は、当時の店長を務めていた若島あさひ氏が宮脇専務に進言した。

「これからの時代は電脳系が主流になり、秋葉原が発信拠点になるので、ここに店舗を構えましょうという提案だった。彼は業界の中でもずば抜けて頭の切れる男で、すばらしい戦略家だった」と話す。

海洋堂はファンを驚かせ、他社を追随させて悔しがらせるものづくりを目指している。この十数年は公立の博物館や展覧会、百貨店の催事場、企業との取り組みを増やし、「博物館を作れる会社」という認知度を高めてきた。

「海洋堂ホビーランド」には多様なフィギュア作品が集められている

ミュージアム事業は海洋堂の実力を示すうえでも重視している取り組みだ。滋賀県長浜市で05年に開業した「海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館」に続き、11年には、高知県四万十川町に「海洋堂シマントミュージアムビレッジ」をオープン。同町には翌12年にも「海洋堂かっぱ館」を開いた。21年には高知県南国市に16億円を投じて「海洋堂スペースファクトリーなんこく」を開設。「造形の軌跡と独特のものづくりスタイルを公開している」(宮脇専務)。

20年には三井物産、三井住友銀行、日本政策投資銀行が共同で設立した投資事業会社、MSD企業投資(東京都千代田区)と資本業務提携を結び、個人経営から大きく舵(かじ)を切った。しかし、提携を発表したプレスリリースにも「これからも面白い商品を世に出す企業として取り組んで参ります」とある通り、ものづくりの軸はぶれていない。

「もともと生き残ろうと考えたこともなかったが、増資を受けたことでつぶれない会社になった」と宮脇専務。他社を圧倒するコンテンツとクリエーター陣に資本力とマネジメント力が加わり、企業体としても安定感を増した格好だ。

フィギュアを文化に育てた海洋堂。ミュージアムをいくつも開けるほど、たくさんの作品群を生み出してなお変えようとしないキャッチフレーズは「創るモノは夜空にきらめく星の数ほど無限にある」。造形師集団ならではの自負を帯びて頼もしく響く。

(ライター 橋長初代)