バウンティ号事件 5本の映画になった嘘のような実話

ナショナルジオグラフィック日本版

1789年4月28日、ウィリアム・ブライ艦長率いる英海軍の船バウンティ号で反乱が起こった。楽園のようなタヒチで何カ月も過ごした船の乗組員たちは、南太平洋の島に永住したいと考えた(PAINTING BY ROBERT DODD, BRIDGEMAN IMAGES)

美しい南の島。壮大な船の旅。乗組員による反乱。1787年11月に英国海軍の輸送船バウンティ号がイングランドを出航した時、その後に待ち受ける運命を誰も想像だにしなかっただろう。

今では、事件は「バウンティ号の反乱」として知られるようになり、20世紀だけで5本もの映画が製作された。ありえない物語のように語り継がれているが、この船と乗組員に起こったことは紛れもない事実だ。

タヒチで奴隷の食料を調達せよ

海軍の船とはいえ、バウンティ号の任務はいたって平和的だった。艦長のウィリアム・ブライは、熱帯の果実であるパンノキの実を、南太平洋の島、タヒチで調達するよう命じられた。パンノキの実は安くて栄養価が高いため、西インド諸島の砂糖プランテーションで働く奴隷の食料として運ぶ計画だった。

乗組員46人のうち、2人は植物学者、士官は艦長ひとりだけ。海軍による護衛船もつかず、1隻だけでの航海だったが、ブライは特に心配はしていなかった。タヒチへは、1769年にジェームズ・クックが訪れており、そこはパンノキの実が鈴なりになっている楽園のような場所だと考えられていた。

嵐で荒れる海を旅すること10カ月、5万キロを航海したバウンティ号は、1788年10月にタヒチに到着した。島は噂にたがわず美しく、現地の人々は友好的だった。乗組員は、島の人と物資を交換したり、自宅へ招かれて歓迎を受けたりした。さらに、英国から運ばれてきた貴重な品と引き換えに、女性たちは体を差し出した。

乗組員たちはそれから5カ月間、昼はパンノキの実を集めたりパンノキの世話をしたりし、夜は酒盛りをして、楽園生活を満喫した。ところがその間に、40%もの男たちが性感染症にかかった。それは、何年も前に英国やフランスの航海者がタヒチに持ち込んだものだった。

反乱にいたる経緯

1789年4月、バウンティ号が祖国へ旅立つ準備を整えた時、反乱の種は既にまかれていた。タヒチで夢のような生活に溺れていた乗組員たちの間で規律の乱れが目立ち、厳しいことで知られるブライ艦長はいら立っていた。バウンティ号の専門家で作家のスヴェン・ワールースは、ブライについて「乗組員のあら探しをしたり侮辱したりし、細かいことにうるさく、横柄な態度で、人をおとしめることを楽しんでいたようだった」と書いている。

ブライは特に、航海士のフレッチャー・クリスチャンにつらく当たり、理不尽な罰を与えていた。4月27日、船に隠してあったココナツを盗んだとして、ブライはクリスチャンを責め立て、このことで全乗組員に対して罰を与えた。

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反乱のその後
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