骨に線を刻んだネアンデルタール人 芸術の才の表れか
ドイツの洞窟で、模様らしきものが刻まれた不思議な動物の骨が発見された。年代測定の結果、この骨はネアンデルタール人の「アート作品」かもしれないとする論文が、2021年7月5日付で学術誌「Nature Ecology and Evolution」に発表された。ネアンデルタール人に芸術性があったのか、アートの起源を巡る長年にわたる議論が再燃している。
19年のある暖かい夏の日、ドイツ、テュービンゲン大学の動物考古学者ガブリエル・ルッソ氏は、ハルツ山地にあるアインホルン洞窟のすぐ外に座り、手にした不思議な動物の骨に見入っていた。
骨はチェスの駒ほどの大きさで、その一つの面には斜めの深い線が10本刻まれていた。骨を見て古代の動物を特定するのが専門のルッソ氏は、すぐにそれが動物の足の指の骨であるとわかった。さらに厳密にいえば、大きなひづめを持った動物の指の第2関節だった。
だが、10本の線をよく観察すると、奇妙なことに気付いた。肉を骨からはがそうとしてできた傷ではないようなのだ。抽象的な模様か装飾的なデザインのようで、それを意図的に刻んだように見える。
アインホルン洞窟の発掘を指揮するゲッティンゲン大学の考古学者トーマス・ターバーガー氏とデューク・レダー氏は、これを見て驚きはしなかった。14年から続いている発掘調査の結果、洞窟の周囲や内部からは数多くの道具や遺物が出土し、初期の現生人類(ホモ・サピエンス)とネアンデルタール人がこの場所を使用していたことが示されていたからだ。調査チームは、この骨も氷河時代の現生人類が作った装飾品だろうと考え、放射性炭素年代測定でそれが裏付けられるはずだと思い込んでいた。
ところが、研究室から戻ってきた測定結果は、意外なものだった。
論文によると、彫刻は少なくとも5万1000年前のものだという。現生人類がヨーロッパのこの地域へ到着したのは5万年前~4万5000年前とされ、それ以前とは考えられていない。つまり、骨の彫刻が作られたのは、現生人類の到達よりも少なくとも1000年は前ということになる。
論文著者らは、彫刻の作者はネアンデルタール人以外にあり得ないとし、ネアンデルタール人による象徴的表現(ある者はそれを芸術と呼ぶ)の年代を直接測定した初の事例であると主張している。ネアンデルタール人は創造性も複雑な思考も持つことができなかったとする従来の考え方は、見直しが迫られそうだ。
果たして芸術なのか?
抽象画や現代アートをめぐる論争を少しでも知っている人なら誰でも、「芸術」とは見る者の評価によるということを理解している。作者と鑑賞者にとって象徴的な意味を持ち、自分の目に映る作品を楽しんだり評価するために作られるものだ。芸術の定義は、文化によっても時代によっても変化することがある。
だがそうであれば、ネアンデルタール人が骨の欠片にデザインを刻んで何を達成しようとしていたかの議論が難しくなる。カナダ、ニューファンドランドメモリアル大学の古人類学者エイミー・チェイス氏は、「現代人にとっての芸術は、視覚や美的感覚という意味でとらえるのが普通ですが、ネアンデルタール人にとってもそれが同じように意味あるものだったかどうかはわかりません。5万年前に作られたものを、私たちの常識で判断しようとするのは無理な話です」。なお、チェイス氏は今回の研究には参加していない。
一方、象徴的表現あるいはシンボルと呼ばれるものは認識しやすく、同意を得やすい。今回の骨は、平たい面を下にして置くと、側面に刻まれた山の形が上を向く。作者は何らかの理由があってこのようにデザインしたと考えることができる。また、シカの骨を選んだのも、意図があってのことだろうか。
「芸術への第一歩と言えます。複雑なデザインやシンボルを使って意思を伝達しようとするとき、いわゆる芸術との境界線に立つことになります。あるいは、既にその境界線を越えている場合もあるでしょう」と、ターバーガー氏は言う。
意図的な作品
ネアンデルタール人の「芸術」と言えそうなものの証拠は、ほとんど見つかっていない。そのため研究者たちは昔から、好意的な言い方をすればネアンデルタール人がシンボルや装飾的な表現には興味がなかったか、悪く言えば創造的な思考を持つ能力がなかったと結論付けていた。
これまでも、スペインの洞窟の壁に描かれた図形のような装飾や、クロアチアでネアンデルタール人の死体と一緒に埋められていたワシのかぎ爪など、極めてまれではあるが、証拠がなかったわけではない。
しかし、考古学者らはそれらの遺物を直接、放射性年代測定にかけるのではなく、そばで見つかった骨の年代や洞窟の壁の化学分析に頼って推定してきた。したがって、それがそのまま遺物の年代であるかどうかは疑問だった。
その点、アインホルン洞窟の彫刻はそのものを放射性炭素年代測定にかけて、年代が特定されている。これに加えて研究チームは、骨に刻まれた線が肉をたたいた時に偶然できた傷などでないことを確かめるため、同じものを作ってみることにした。
骨は、ギガンテウスオオツノジカと呼ばれる大型のシカのものだった。立った時の肩までの高さが約2.2メートル、体重は小型自動車ほどで、アルプス以北にはほとんど生息していなかった。
このシカは7000年以上前に絶滅しているため、同じ骨を手に入れることはできない。そこでレダー氏とゲッティンゲン大学の実験考古学者ラファエル・ハーマン氏は、それによく似た牛の骨を調達した。また、線を彫るためにレプリカの石の刃も用意した。
試行錯誤の末、骨は何度も鍋で煮沸し、乾燥させると線を刻みやすいことがわかった。また、1本の線を入れるのに10分かかり、貴重な石の刃を1~2個消費した。「多くの段階を踏み、よく考えて作られています」と、ハーマン氏は言う。
米ケニオン大学の考古学者であるブルース・ハーディ氏は、次のように指摘する。「実用的ではないモチーフをわざわざ骨に刻むことには、何らかの理由があったはずです。どこかのネアンデルタール人が、時間をかけてこれらの模様をシカの骨に刻んだ。そこには意図があった。これを他の証拠に加えれば、ネアンデルタール人に象徴的行動があったという証拠が積み上がるでしょう」。ハーディ氏も、今回の研究には参加していない。
だが、ニューヨーク州ストーニーブルック大学の考古学者ジョン・シア氏は別の見方をする。アインホルン洞窟の骨は、魚釣り用のおもりかもしれないし、糸巻きの芯かもしれない。そうでなくても、5万年後の現代に生きる私たちには想像もつかない何かの実用的な道具なのかもしれない。「使い方がわからないからと言って、それがシンボルだとは限りません。少し考えてみれば、別の用途を考え付くはずです」
また、こうも付け加える。「人間がシンボルを使う時、他のあらゆるところでもそれが見られます。ネアンデルタール人がシンボルを使っていたのだとすれば、私たちとは違う使い方をしていたのでしょう」
芸術家、または腕のいい模倣家
問題をさらにややこしくしているのは、現生人類とネアンデルタール人がわずかではあるものの同じ時期に同じ場所に存在していたということだ。これまでにネアンデルタール人のものと特定された象徴的表現あるいは芸術品らしき遺物のなかには、人類がヨーロッパに到達したばかりの頃に作られたと思われるものがある。つまり、ネアンデルタール人はオリジナルを創作したのではなく、単に人間の作ったものをまねする能力にたけていただけだと、研究者たちは主張してきた。
ところが今回、アインホルン洞窟の彫刻は人類がヨーロッパへ到達する以前のものであると特定されたため、ネアンデルタール人が作ったものに違いないと、論文著者らは言う(ただし、この論文に添えて掲載された古人類学者のシルビア・ベロ氏による論文は、最近の遺伝学的証拠によりホモ・サピエンスのヨーロッパ到達がこれまで考えられていたよりも早かった可能性が浮上しているため、彫刻が現生人類の影響を受けていたという説は排除すべきではないと指摘している)。
ターバーガー氏も、現生人類の独創的な作品とネアンデルタール人のそれには大きな隔たりがあることを認めている。「初期の現生人類の物質文化には、このような遺物が当たり前のようにどこにでも見られます。けれど、ネアンデルタール人はめったにそういったものを作っていません。世界にはネアンデルタール人が暮らしていた場所が数千カ所発見されていますが、そのなかで芸術的表現と思われるものが出土した場所は、わずか10カ所ほどしかありません」
(文 ANDREW CURRY、写真 ROBBIE SHONE、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2021年7月7日付]
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