水際対策の切り札はイヌ? コロナ感染者をかぎ分け
トゥッカはフリスビーで遊ぶのが好き。グリズは、柔らかいオレンジ色のボールがお気に入りだ。トビーは、暇な時間には昼寝をしたり、通り過ぎる車にほえたりして過ごす。どこにでもいるような犬たちだが、実は驚異的な能力を持っている。彼らは新型コロナウイルス感染者のにおいを嗅ぎ分けられる探知犬なのだ。
新型コロナウイルスの感染には通常、PCR検査などが利用されている。そんななか、米ペンシルベニア大学獣医学部の研究チームは、犬にも感染の有無を探知できる能力があるかどうかを究明する取り組みを進めてきた。
2021年4月14日付で学術誌「PLOS ONE」に、このPoC(概念実証)実験の結果が発表された。論文によると、新型コロナウイルス陽性者の尿や唾液には、犬がそれと特定できるにおいがあることが明らかになった。なお、すべての実験でウイルスは不活性化されていた。研究者たちは現在、トゥッカ、グリズ、トビー、リコ、ロキシーの協力を得て、ウイルスを含む汗が付着したTシャツを犬が嗅ぎ分けられるかどうか実験中だ。
犬が衣類に含まれる新型コロナウイルス感染者のにおいを正確に探知できれば、空港やスタジアムなどの公共の場を巡回して感染者を見つけ出せるかもしれない。
「実際に実用化できるかどうかが大きな問題です」。論文の上席著者で、ペンシルベニア大学獣医学部ワーキングドッグ・センターの所長であるシンシア・オットー氏は話す。「犬が感染者を識別できれば、今後の可能性が広がります」
感染者の汗のにおいを探知
人間より1000倍から1万倍も優れた嗅覚を持つ犬は、すでに多くの場面で活躍している。例えば、パーキンソン病、糖尿病、いくつかの種類のがん、てんかん発作の前兆、マラリア、その他の病気を早期の段階で見つけ出すことができる。
また、自然災害の発生時には捜索・救助チームに協力し、軍事行動においては隠れた爆発物を見つけ出す頼もしい仲間となっている。税関では、検査官と組んでドラッグや象牙などの密輸品を捜索する探知犬も活躍している。さらには、密猟者を追跡したり、絶滅危惧種や侵略的外来種を検知することもある。
20年春、ペンシルベニア大学の研究者たちは、尿や唾液のサンプルから新型コロナウイルス感染者のにおいを嗅ぎ分けられるよう、犬を訓練し始めた。11月には、汗のサンプルから探知する訓練に進んだ。訓練はまず、陽性サンプルを犬に嗅がせ、ごほうびを与えることからスタートする。感染者のにおいと楽しい体験との関連を犬が学習すると、いよいよ正式な実験を開始する。
実験では、汗が付着したTシャツの他に、清潔な衣類や梱包資材、消毒用アルコールなどを用意する。そして、それぞれを網状のふたが付いた容器に入れ、8本の腕が放射状に伸びる金属製のホイール(回転装置)の末端に取りつける。そのうち1つの容器にだけ、着用してから48時間以内に新型コロナ検査で陽性となった人のTシャツが入っている。犬たちは、陽性者のサンプルを検知するまでホイールの周囲を歩くよう教えられる。
オットー氏によれば、21年4月の論文で発表した尿と唾液のサンプルを用いた実験結果では、犬は96%の確率で感染者のにおいを正しく探知できたという。汗が付着したTシャツを用いた現在進行中の実験でも、非常に高い成功率が得られている。
ロキシーは最も仕事が速く、陽性者のサンプルをわずか12秒で見つけ出すことができた。まだ若いリコはもっと考えこむタイプで、正解のTシャツを探知するまでに23秒ほどかかる。
すでに活用例も
犬たちは、人間の細胞の代謝によって分泌される尿、唾液、汗などに含まれる揮発性有機化合物のにおいで新型コロナウイルスの感染者を探知する。
この化合物は「病気の指紋のようなもの」だと、実験に参加している博士研究員アムリサ・マリカージュン氏は説明する。そのにおいは人間の嗅覚では判別できないが、犬には非常に優れた嗅覚がある。「犬の鼻には、空気が還流したり、表面に接触したり、嗅覚受容体に捕らえられたりするスペースが豊富にあります」
英国やフランスなどでも、同様の研究が完了または進行中だ。例えば、フランスのアルフォール獣医大学の教授で獣医のドミニク・グランジャン氏は、新型コロナ検査の陽性者と陰性者の汗のサンプルを犬が識別できることを確認した。氏は、新型コロナの変異ウイルスの感染者を犬が識別できるかどうかについて実験を始める予定だと、ナショナル ジオグラフィックに語っている。フィンランドのヘルシンキ・ヴァンター国際空港では、乗客から感染者を見つけ出すための探知犬がすでに配備されている。
新型コロナ探知犬がPCR検査など他の新型コロナ対策に取って代わることを期待する声もある。PCR検査は、鼻や口腔のぬぐい液の採取が必須で、結果が判明するまでに数日かかることもある。汗に含まれる感染者のにおいを探知できるよう訓練された犬ならば、人々の列に沿って歩きながら、すばやく感染者を嗅ぎ分けることができると、マリカージュン氏は話す。しかも、新型コロナウイルスは汗を介して人や動物に感染しないことが複数の研究で明らかになっているので、リスクは最小限に抑えられる。
犬の能力を応用して、人工の「鼻」が開発できる可能性も考えられるという。呼気のアルコール検知器のような働きをする電子機器で新型コロナ感染者を特定する仕組みができるかもしれない。
一方で、パンデミック(世界的大流行)との闘いに探知犬がどこまで活躍するかについて判断するには時期尚早という見方もある。「たしかに可能性はあります」と、米ジョンズ・ホプキンス大学ブルームバーグ公衆衛生大学院の国際保健学教授であるアンナ・ダービン氏は言う。氏は、他の対策を補うものとして探知犬を活用できる可能性があると考えている。例えば、1次スクリーニングとして探知犬を利用し、その後、検体を検査して確定すれば、感染の可能性がある人は早めに措置を講じることができるだろう。
もちろん、どんな犬でも探知犬になれるわけではない。「新型コロナ探知犬を導入しようと浮き足立つ人がたくさんいるようですが」とオットー氏は言う。「犬にも適性があることを考える必要があります。信頼できる犬でなければならないし、飽きっぽい犬もこの仕事には向いていません」
犬の認識能力の専門家である米バーナード・カレッジのアレクサンドラ・ホロウィッツ氏は、今回の研究には参加していないが、こうした嗅覚による検知作業に最も適しているのは「報酬をもらうためなら求められたことを何でもやる」犬だと話す。
「グリズはまさにそんな犬です」と研究チームのメンバーたちは口をそろえる。グリズは、お気に入りのごほうびであるオレンジ色の柔らかいボールで遊ぶために、せっせと仕事をする。「グリズはこのボールが大好きなのです」とマリカージュン氏は言う。「ボールを押しつぶすのが好きで、とても楽しそうにしています」
(文 JILLIAN KRAMER、写真 SABINA LOUISE PIERCE、訳 稲永浩子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2021年5月21日付]
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